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エネルギーと海での一日と瞑想は仕込みの話

先日の日曜は久しぶりのセミナーだった。

天気もいい感じ。

あまりにも早い梅雨明けと猛暑で・・・

 

「これはちょと暑すぎるな」

 

と開催前は危惧したが、当日は最高気温も34度とそれほど高くならず、会場もベストな状態だった。

夢の島での開催は5年ぶりくらいだったが、やっぱり海の見える部屋はいい。

 

 

内容としては「エネルギー・マスター」という事で、エネルギーを使った実技中心のワークだった。

普段はWEB中心だが、やっぱり実際の参加者さんの状態や反応を確認しつつ行うのでやりやすかった。

 

なぜ、エネルギーをテーマにしたかというと、私たちの本来の意識状態。

いわゆる悟りとか覚醒という言葉でいうところの意識状態というのはある意味・・・・

 

「シンプルだけれども難しい」

 

という性質がある。

 

よくアドヴァイタなどで・・・・

 

「あなたは既にそれである」

「眼は眼自身を観ることが出来ない」

 

などというフレーズがある。

これらは人の話を聞いたり、本を読んでも・・・

 

「なんかそんな気もしないでも無いけど、よくわからない」

 

という感じになるのが大半。

 

ちなみに、精神世界の本質として高度な行になればなるほど実はシンプルになる。

 

例えば瞑想の緻密な体系として知られるヴィパッサナー瞑想なども、ひたすらシンプルに呼吸の観察を延々と行なったり、ひたすらゆっくりと歩く瞑想をしたり。

 

だから、通常は・・・・

 

「なんだかよくわからない」

「なんだか落ち着いた気分になった」

 

ぐらいで終わる。

 

「ありがたい話と瞑想をしてなんだか神聖な気分になった」

 

みたいな雰囲気だけで終わってしまうわけだ。

自我が崩壊するほどの本当の衝撃にはなかなか遭遇しない。

つまり、難しいわけだ。

 

そこで、エネルギーという媒体を「つなぎ」として使って、少しでも自分の「枠」というものを外して体験として実感してもらうのが一つの打開策となる。

もちろん、エネルギーを感じたから、意識の範囲が拡がったからイコール覚醒や悟りとは言わない。

しかし、そのきっかけにはなり得る。

 

 

例えば・・・・

 

「海で泳げる」

 

という事が覚醒や悟りだとしよう。

 

しかし、今まで水を見たことも触った事がなければ・・・・

 

「海ってなに? 水ってなに?」

 

と途方に暮れるわけだ。

 

水のことをいくら本で読んで知識を貯めようが、人から話を聴こうが・・・

 

「水というのは化学式ではH2Oで液体で・・・」

「私が海で潜水する時はこの体がまるで母なる地球の海と一体になり歓喜が・・・」

 

みたいな情報を頭で取得しても、実際に水に触れたことが無ければ何もわからない。

混乱するだけ。

 

しかし、洗面器でもいいので・・・

 

「これが水だよ、手を入れたり顔を入れて息を止めてごらん」

 

と言ってやってみれば・・・

 

「これが水なんだ!」

 

とわかるわけだ。

 

もちろん、洗面器に顔をつけただけなので海で自由に泳ぐのとは違う。

 

しかし、それは水の体験・認識としては海で泳ぐということと同質ではある。

 

そうすると、その人のカルマ(プログラム)にもよるが、遠からずにその人自身の道の体現には至るということになってくる。

 

みたいな例えかな。

 

 

エネルギーも同じで、その作用によって自己が拡大したり、酔ったり神秘体験をしても、それをもって悟りや覚醒とはちょと言えない。

 

しかし・・・

 

「あれっ 私はこの体の中にいるだけでは無いんだ」

「他の人となんか実感として繋がっている」

「意図で現象が変わるわ」

 

とカラダでわかると、覚醒や悟りの仕込みにはなる。

仕込みというのは料理をする人はわかると思うが、ある種の料理は仕込みを必要とする。

 

例えば肉を柔らかくするには・・・

 

・スジを切ったりたたいたり
・お酒をシュシュと吹きかける
・パイナップルやキュウイと一緒に保存

 

などの下処理をしたりして美味しく頂けるようにするわけだ。

 

それと一緒で今回の話のエネルギーもそうだが、言ってしまえば瞑想もこの仕込みの一種。

 

瞑想をしたからと言って覚醒や悟りが起こるわけじゃ無いからね。

 

ただ、そうとは言え仕込みにはなるので大抵は必要という話にはなってくる。

 

まあ、難しい話はともかく実際に人が集まって行うイベントもいいねという話でした。