前回はRubin’sワークに参加して来たと言う話だった。
前回のお話。
Rubin’sワークに参加してきた 身体ワークによる覚醒ポイントの発見
この辺は非常にマニアックな話なので、興味を持っている人には物凄く刺さるテーマであるが、普通は…
「何をやっているの?」
みたいなケースになりがちな分野だ。
同系統のワークとしては有名なところではダグラス・E. ハーディングなどだろう。
私も25年くらい前にダグラス・E. ハーディングの「心眼を得る」を読んだ時にある種のショックを受けた。
この辺については数年前に旧ブログで記事にしたことがある。
すぐに出来る実験とかあるので、やってみると面白いかもしれない。
ダグラスハーディング
盤珪とダグラス
このダグラス・E. ハーディングの方法と似たような感じのものとしては、これも25年くらい前だったかな?
アジズ(アナディ)と言う瞑想家がステート・オブ・プレゼンスと言うメソッドを提唱したりしている。
これは言ったらダグラスが「私は無い」と言うことにフォーカスした技法だとすると、アジズのステート・オブ・プレゼンスは「在る」と言う観照している意識である目の奥の頭の中心にフォーカスする技法とも言える。
ダグラスハーディングもアジズもそこそこアドヴァイタ界隈では流行ったので、知っている人は知っているだろう。
これらはこれらで良い技法だと思う。
ただし、多くの場合は…
「何となく言わんとすることはわかるけど、これが何なの?」
「私は確かに無いけど、だから何?」
「見ている私が悟りなら、もう悟ってるの?」
みたいな感じに終始してしまいがちだろう。
そうこうしているうちに、ワーク中はいいが日常生活で起こる生活に巻き込まれて、結局大事な場面では役に立たないし、わかったようなわからないような曖昧な感じになってしまうと思う。
これは私自身がそうで、最初にダグラス・E. ハーディングの本を読んだときに同じような感じになった。
例えるなら、足の裏が痒い時に靴を履いたまま足を掻いているみたいなもどかしい感じ。
「痒いところを掻けているんだけど、掻けていない」
「わかるんだけど、わからない」
などの非常にもどかしい感じになるのが99.99%だと思う。
なぜ、このようになってしまっているかというと、いくつかの問題がある。
まず、第一に非常にわかりにくい構造になっていると言うのが挙げられる。
なぜ、わかりにくいかというと…
「あまりにも近すぎる」
と言うのが最初に挙げられる。
スーフィズムなどでも…
「眼は眼自体を観ることが出来ない」
であるとか、禅でも…
「眼は自らを見ず、刀は自らを割かず」
のような教えがある。
このような話をすると…
「トンチの一休さんみたいですね」
と思うかもしれないが、要は私達はあまりに「覚醒・悟り」に近いポジションにいる為、その本当の偉大さがわからなくなってしまっているわけだ。
「そんなの、近くてもわかるショ」
と思うかもしれなが、実はここがわからないわけだ。
本を読んで理解したり、上記のようなワークをして「わかった」ような気分に少しなるが、本当に理解するにはかなり難易度が高い。
もう、これは意識の構造上、あるいは世界の構造上致し方ないとも言える。
私はよく重力に例えて説明する。
重力、引力は具体的な数式は知らずとも、そう言うものがあるというのが今は一般常識ではある。
それを理解して計算出来たり、使ったりすることによって…
- ビルを建築したり
- 飛行機やロケットが飛んだり
様々なテクノロジーが発展したとも言える。
だから、重力があるのは私達にとってはある種当たり前だが、例えば江戸時代の人に…
「重力というものがあってね、凄く大事なんだよ」
と言っても…
「テヤンでぇ 何わけのわからねえこと言ってやがる」
「手を離すと下に落ちることだろ? それがどうした?」
と言われてしまうのがオチである。
それに覚醒や悟りは似ている。
ある意味、私達は地球という重力の圏内に生まれて、それを当たり前として生きて来たので、その存在を意識出来ない。
あまりにも普通だから。
しかしである。
ある時、段差でつまづいて転んだとする。
また、屋根から落ちたとする。
「イタタタッ!!!!」
物凄い衝撃と共に、重力が何であるか初めて実感するわけだ。
それと一緒で、覚醒や悟りもある種の技法と言うショック療法によって…
「!!!!!!!」
となるケースが多い。
その時、私達は本来の意識の一端を垣間見て衝撃を受けるわけだ。
そのショック療法の一つが先に上げたダグラスやアジズ。
また古今東西からある瞑想の技法になってくる。
ただし、ここでも壁がある。
技法を行って解消するなら、ある程度誰でも覚醒体験が起きるという話になってくる。
ところが、それがそうでも無い。
これには2つの要素がある。
続く。