今日は酔いの話。
いろいろ動画で瞑想や意識について解説しているが、実際どのような感じなのかということを少しシェアしていこうと思う。
詳しくは導入部分などは本に書いてあるし、講座としては「itの講座」有料の講座で実践している。
その結果どうなるかと言うことを一部ブログでシェアしてみよう。
神様に酔っ払う
瞑想は最近またブームというか、マインドフルネスと言う名前で逆輸入されている形になっている。
であるから、瞑想について知りたければそういった本を読むのもいいし、YouTubeの動画でもいろいろあるし、セミナーとかもあると思う。
ではそういったものと、私がシェアしているものと具体的に何が違うかと言うと、1つには・・・
「酔い」
と言うものが挙げられる。
酔いと言うのは文字通り
「酔っ払う」
ということである。
何に酔っ払うかと言うと…
「神様に酔っ払う」
と言うことである。
この神様に酔っ払うと言う言葉と聞くと、何が何だかわからないと思う。
しかし実際にこれは仏教であれヨガであれある程度行が進んでくるとなる状態である。
例えばインドの聖者であるラーマクリシュナもこのように言っている。
「最初は一定の形式やジャパマラを使って祈りをするが、祈りが深くなってくるとそういったことができなくなり、ただただ神の愛に身を浸しているだけになる」
と言うようなニュアンスの話をしている。
こういった話を読んだり聞いたりすると、なんだか神秘的というか自分とは無縁の世界のような気がするが、実はそんなこともない。
もちろんある程度の慣れというか正しい努力は必要だが、もともと私たち人間に備わっている働きというか性質なので、わかってしまえばむしろそちらの方が自然と言う話になってくる。
これは毎日24時間そのような状態にあるわけではないが、比較的頻繁にそれはやってくる。
具体的にどのような状態になるかというと、例えば朝から酔っ払う。
コーヒーを飲んで酔っ払う
朝起きてコーヒーを飲んでしばらくすると、エネルギーが満ちてくる。
主観的には上の方からゴーッと降り注いでくる感じ。
例えて言うと30分ぐらい半身浴したり、運動の後に温冷シャワーを浴びた後に近い感じ。
全身がシュワシュワするというか、頭の方に熱が登って膨張気味になるというか、その日のコンデションによっても違うが、とにかく「クル」
そのぐらい物理的には体で感じる。
また、意識的には酔っ払いと言う言葉の通り、たいていの細かい事はどうでもよくなってくる。
厳密に言えば、どうでもいいと言うのは言い過ぎなのであるが、物事の主体というか責任の結果は神様の領域なので、自分と言う檻というか責任や結果から解放されているので、かなりの開放感を感じる。
「私」からの解放
自分の檻、つまり牢獄から解放されるとはどういうことかと言うと、通常私たちは…
- 過去に対する後悔
- 現在に対する悩み
- 未来に対する不安
などいろいろあるわけだ。
仕事であったり、お金であったり、人間関係であったり、健康問題であったり。
やっぱり生きていると、誰でも何らかの不安を抱えていたり葛藤を抱えていたりする。
これはいろいろ原因があるわけだが、1つの大きな要因として…
「自分の問題」
として捉えているので、このような不安や心配葛藤を抱えることになっている。
「リアルさんそんなの当たり前じゃないですか」
と思うかもしれない。
確かにその通りで、自分が全部やってるし、その結果いろいろなことが起こってきてそれに翻弄されていると言う風には見えている。
しかし、もし今思ってるような形で自分が存在しているのではなく、すべての鍵は神様が握っているとしたらどうだろうか?
そういった事を理論的にはではなく、感覚的に直感的にエネルギー的にそういったことがわかってくると、上でお話ししたような「自分の牢獄」から解放されてくる。
もちろんそれが起こることによって、今後一切何も心配もなく、感情が乱れることも一切ないと言う話ではない。
この体を持ってこの世界に所属している限りは、いろいろな波風も受けるし、カルマ的な要素も受けるので影響はある。
ただ、それがわかってしまえば一時的に影響受けても、所詮この世の出来事なのでそれほどは深傷を負わない。
また、最初に言ったように物理的というか感覚的にもエネルギーや愛で満たされるので、今までとは比較にならないような満足感で満たされる。
ということで、私の特徴というかミッションとしては、このようなバクティ型の良さをもっと知ってもらって体感してもらえるような場を提供していくことかなと感じている。