本文へ移動
REAL WORLD CONSCIOUS LIVING

REAL WORLD JOURNAL

瞑想は必要なのか? スマホと江戸時代と未来のテクノロジー

瞑想

今日は瞑想について少し解説していきたいと思う。

「そもそもなんで瞑想が必要なのか」

ということを考えたことはあるだろうか?

これはスピリチュアル系の瞑想や最近のマインドフルネス、瞑想の本やセミナーなどに行って

「瞑想はいいもんだから、しなくちゃ」

と思っているような比較的初心者の方はもちろん、本格的に瞑想修行した経験者も1度考えた方がいい。

瞑想という言葉の定義は色々あると思うが、私が定義する瞑想とは・・・・

重要
幻想の世界からの離脱

意味する。

幻想の世界からの離脱

では、幻想の世界からの離脱とは一体どういうことだろうか?

幻想の世界とは一言で言えば・・・・

重要
言葉で作られた概念の世界

ということができる。

これだけだと分かりづらいだろうから、具体的に解説してみよう。

これはある程度わかる人には衝撃的な事実だが・・・

「私達は真実の世界は認識できない」

という事実がある。

この真実の世界は認識できないという話にもいくつかのレベルがあるのだが、一番簡単なレベルの例を話していこう。

蝿とスマホ

例えば今あなたはパソコンやタブレットやスマホでこの記事を読んでると思う。

その時・・・

「ブーン」

蝿が飛んできたとしよう。

蝿あなたの読んでいる文字が読めないのはもちろん、パソコンやタブレットやスマホなどは認識できない。

これは、もしペットを買ってきたら、ワンちゃんやネコちゃんも一緒で、ご主人様が何か手に持っていたり、見ていたりするのは認識するだろうが、その内容はわからない。

「リアルさん、動物とか昆虫は文字が読めなかったり、パソコンやスマホだと認識できないのは当たり前じゃないですか」

と思うかもしれない。

もちろん、これは当たり前だ。

しかし、ここに重要な秘密がある。

これが昆虫や動物でなく、アマゾンの奥地に住んでいる文明とか、江戸時代の人がタイムマシーンで現代に来たとして考えてみても同じだ。

例えばスマホ。

黒いiPhoneはモノリス?

私は黒いカラーのiPhoneを使っているが、スマホという概念がない人がこのiPhoneを見たら・・・

「黒い四角い石」

「レンガ」

という自分が知っているものと結びつけて考えることはできるかもしれないが、ネットや動画を見れる通信機器としての認識はぱっと見ただけではできないと思うしましてや使いこなせないだろう。

ちょうど「2001年宇宙の旅」というアーサー・C・クラーク原作でスタンリー・キューブリック監督の映画でのシーンにあったが、原始人が見たらブラックのiPhoneは小さなモノリスとも言える。

これはアマゾンの未開の人々や江戸時代からタイムマシーンできた人を想定しなくてもつい20〜30年前の私達についても言える

30年前といえば、携帯電話を持っている人は殆どいなかった。

20年前でもPHSや携帯電話があったが、現在のような、スマートフォンはなかった。

このような手に収まるサイズで、コンピューターと同程度の能力を持つような魔法の箱が1人1台所有するとは思っていなかっただろう。

これは未来についても言うことができる。

未来のスマホ

今から20年後、30年後のスマホに相当するものをぱっと見ても何だか理解できないに違いない。

もしかしたら、それはもう既に手に持っている形というものではなくなり、何らかの形でウェアラブル端末になっているか、体内に埋め込まれている可能性も出てくる。

何らかの形のウエアラブル端末というのは、例えばコンタクトレンズのように目に埋め込むとか、皮膚に貼るとか。

サイズも今のスマホより格段に小さく薄くなり、それと反比例して性能は今では考えられないぐらい高性能で拡張性も高まる。

そういった未来のスマホが今、私達の目の前にあっても・・・・

「・・・・?」

という感じで、目には見えても認識できないだろう。

「リアルさん、瞑想の話と全然違うじゃないですか」

と思うかもしれないが、今話してる内容はとても重要。

では、なぜ未来のスマホが今私達の目の前にやっても認識できないのか?

それは私達がその者であれ、現象であれ概念であれ・・・

「言語化できない」

ということが認識できない理由だからだ。

思考は幻想である

逆に言えば、私たち人間は言語化できるから、概念化でき、その世界を作り出す(認識)ことができる。

さらに言えば、言語化したものを概念化したもので、構成されたものはある種の幻想、マーヤである。

つまり、私達人間社会、これは人間関係や文明社会、文化体系含めた全て思考を使うもの、言葉を必要としているものを全ては1種の幻想でありマーヤであるということを示唆している。

これはそういった分野を扱う心理学的なものもそうだし、いわゆるスピリチュアルと言われているものや、昔からある宗教全般も該当している。

なぜなら、それらも本質的にはともかく、表面的には言葉や概念、形式で構築されているからだ。

瞑想とは、この幻想性を1時的にでも打破する仕組みである。

だから正直どのような瞑想をするかは、その人に合ったものをすればいいだけであって、単なる手段である。

また、幻想性を打破できれば目をつぶってする瞑想だけでなく、祈りや思索、意識の設定も役に立つ。

また何らかの瞑想体験や至福意識がある種の事故や病気によって発生するシステムは、私たちが日常的に持っている言語化概念化で構築された世界が部分的にでも綻んで元々ある世界が垣間見えたことによって起きたことだと言える。

ここの部分がわからないと、つまり瞑想は幻想性を打破するためにあるというのがわからないと迷宮に迷い込む。

逆にここの部分が頭の理解だけでもできて、腑に落ちてくると・・・

  • なぜ瞑想では思考にとらわれないようにするのか
  • なぜ瞑想では無が重要視されるのだろうか
  • なぜ瞑想では集中力が必要と言われるのだろうが
  • なぜ瞑想では気づきが重要だと言われてるのか

などが自然にわかってくる。

また、これが頭の理解だけでなく、体験としてわかってくると、自分が抱えている様々な問題に対して納得感や決着がついてくる。

なぜ瞑想するの?

つまり、言葉や概念では超えられない壁を一時的にも超える為に瞑想を含めた様々な行的なものがあるとも言える。

更に言えば言葉や概念では理解したつもりになっても、それもまた幻想(マーヤ)内の出来事になってしまうという話になってくる。

ここの根本的な視点を無くして、色々な理論を覚えたり議論をしても意味は無い。

ということで今日は抽象度が高い話になったが、次回はもう少し具体的な話をしてみよう。