ルビンのワークへの参加
昨日はパートナーが主催するルビンのワークに行ってきた。
いつもは用事があるので、写真撮影だけして1時間位ではけてしまうのだが、ここ 数回は最後までワークを見ている。
何と言うかパートナーだから言うわけではないが、このワークは画期的だ。
スピリチュアルな覚醒系ワークの一般的な形式
どこがどう画期的かと言うと、普通はこういった分野は次のような感じで行う。
こういった分野と言うのは、いわゆるスピリチュアルの中でも覚醒系 と分類されるもの。
覚醒的系 とはいわゆるアドヴァタと 言われるものを指す。
有名なところでニサルガダッタ・マハラジとかムージとか。
「 あなたは既に覚醒してるんですよ」
みたいな話を覚者や聖者と 呼ばれてる人から延々と話を聞くスタイルが一般的である。
従来の方法論のメリット
もちろんこれはこれで良い部分もたくさんある。
良い部分と言うのは、結局こういったスタイルは話を聞いているようで、意識を共有するスタイルなわけだ。
話を聞いているようで、意識を共有すると言うのは、話してる言葉自体に意味があると言うよりも、そこの場にいるだけで、情報が伝達すると言う性質を生かしたスタイルということができる。
瞑想スタイルの特徴
また、こういった法話 スタイルとは、違うものとしては、ひたすら座るというものがある。
私がよくブログで取り上げる。TM 瞑想などもそうだし、ヴィパッサナー瞑想などもそう。
ひたすら座る 瞑想の場合は深い状態に入っているうちに、この体の境界を超えて、私たちの意識そのものに目覚めていく。
一瞥体験の本質
それがある一定の臨界点を超えたときに…
「あっこれか」
みたいな自分の意識本体に気づく時が やってくる。
まぁ言ったらこれが一瞥体験といってもいいだろう。
一瞥 体験などと言うと、何かすごい修行をしてすごい境地のような気がするが、まぁ言ったら…
「 自分の意識のデフォルト状態に気づいただけ」
とも言える。
従来の方法論のデメリット
とにかく、このようにわかったと言われる人から話を 聞くスタイルにしろひたすら座るスタイルのにしろ、様々な方法論というかバリエーションがあるわけだ。
これらはこれで今まで何千年も行われてきたことだし、もちろんメリットもたくさんある。
がしかし、 デメリットというか私が思うに…、
「時間がかかる」
と言う性質がある。
ルビンのワークの特徴
これに対して、 昨日参加したルビンのワークはピンポイントで教えるタイプと言える。
具体的に一瞥体験や 私たちの本来の意識の状態や世界の成り立ちについてピンポイントで
「これなんですよ」
と言うダイレクトに教えてくれるタイプ。
ルビンのワークのメリットとデメリット
メリットとしては一瞥体験や至高体験がある場合やセンスが優れている場合。
または深い瞑想体験がしょっちゅうある場合などは…
「ああ〜 なるほど なるほど」
と、プチ再現されてしまうケースがある。
つまり最速だ。
逆に、デメリットを言うと一瞥体験が無い場合や瞑想もまだそこまで深まっていない場合は
「???」
と、意味不明の話や体操をやっているような感覚になってしまうという部分だろうか。
ワークの意義と潜在的な効果
この辺の部分はAYA自身も悩んでいるところだと思うのだが、私は帰りがけに言ったわけでだ。
「 でもさぁ、例えば10人来た中で、1人か2人でもハッとなったり理解出来たら凄いんじゃないの?」
「 だってそういうのは他のメソッドだと不可能じゃん」
みたいな話をした。
もちろん、ルビンのワークでいまいちよくわからなかった場合でも、それが仕込みとなって、自分に ベストなタイミングで顕在化したときに…
「ルビンでやっていたワークはそういう意味だったんだ」
と自覚する瞬間は充分あると思う。
白隠禅師は音がきっかけ
この文章を読んで、もしかしたらあなたはこう思っただろう。
「ダイレクトなワークってどういうワーク」
ダイレクトのワークとはいろいろなパターンというか、導入口が あるのだが、昨日行ったのはハートのワーク。
ティッシュペーパーや銀紙を使って、ハート でダイレクトにそれらを感じると言うワークを行った。
まぁハートのワークといっても導入部分としてのハートであって、意識全体と言っても良いかもしれない。
AYA がティッシュペーパーを 手に持って…
「これを感じて!!」
みたいなワークをするわけだ。
端から見ると、新しいコンテンポラリーダンスかと思うようなワークだが、わかる場合は…
「あれ? あれ? なんだこのフィーリング!!」
みたいな感じになって、理屈ではなく、自分の ハートや体や自分自身の場が共鳴していく。
つまり、理屈ではなく、ダイレクトにわかるわけだ。
シンプルといえばシンプルだが、まあ、高度。
高度というのはよく禅の悟った瞬間でなにかとなにかがぶつかる話が良くある。
例えば、白隠慧鶴禅師は、若い頃に「無」の公案に取り組んでいた時、突然鐘の音を聞いて悟りを開いたと言われてる。
言ったら…
「鐘の音を聞いただけ」
なのに何故悟るのか?
その辺のテクニックがルビンのワークにちりばめられているわけだ。
この辺の解説をすると長くなるので、詳しくは際にルビンのワークを受けてもらったほうがいいんだけれども、1点だけ言うと自分と他者との境界線が崩れる現象と言ってもいいかもしれない。
脱同一化
私たちは通常この体の中にいると言う認識になってると思う。
つまり体との同一化だ。
また、同一化 と言う話をするならば、実は体だけでなく、 自分と言う存在。
- 自分の名前
- 自分の考え
- 自分の主義、主張
- 自分の家族、仲間、友人
- 自分の会社
- 自分の国
など等自己同一化している。
これらはこれで別に悪いわけではない。
なぜなら、そういったものと同一化することがある意味、人間としての人生とも言えるからだ。
が、しかし、あまりにも強い それとの同一化や、自分の思考や感情によるフィルターでのバイアスがかかると、事実と違う認識で、物事を捉えてしまう場合があって、それがいわゆる「苦」 として現れてしまう。
であるから、同一化するベースとしての我に少しでも気づけると、 これらの苦しみというのは完全になくなりはしないだろうけれども、かなり軽減される。
また、本来のデフォルトとしての我が 認識されることによって、必ずしもこの人間形態としての自分が自分の全てではないということがわかると、とてつもない開放感や認識が起きる場合がある。
それらを起こすきっかけとしては、この同一化の部分が揺らがないと、頭の理解だけで 発生しないわけだが、そのきっかけとして音だったり、何らかの視覚的刺激だったり、 感情的なインパクトだったり、様々なものがきっかけとして使われるというか、結果的には役立つわけだ。
これを意識的に行うのが、いわゆる瞑想や祈りや ワークと言われている 物の正体の1部である。