今日はスピリチュアルについて。
スピリチュアル・マーケット
ここ数年は、ますますスピリチュアルブームになってきた感があるが、違和感も感じている。
プロフィールや Kindle 本に書いたように、 もともとは12歳の時から始まった体外離脱によってこの世界に足を踏み入れた身としては違和感を感じている。
何に違和感を感じているのか?
それは・・・・
「何の為にやっているのか?」
という動機である。
端的に言えば、その・・・
- 瞑想法
- 祈り
- 各種のスピリチュアルなワークやテクニックや知識
これらは何のためにやっているのだろうか?
という目的のこと。
なぜなら 本屋に行って タイトルを見れば分かるが・・・・
「この瞑想をすれば仕事が・・・」
「この祈りをすれば恋愛が・・・」
「神社でこう祈ればお金が・・・」
のように、 あたかも個々人の欲望を叶えるために 各種スピリチュアルなものがあるかのように陳列されている。
「そんなの当たり前じゃないですか?」
と思うかもしれない。
でも本当にそうだろうか?
仕事の成功や恋愛や結婚の成就が人生の目的なのだろうか?
叶ったのか 満足か?
また多くの人が・・・
「願いを叶える◯◯」
的な方法、これは瞑想でも祈りでもアファメーションでも何でもいいが、それらをやってうまくいかないのはなぜか?
また、仮に叶ったとしても一時的な達成感に終わり、本質的に満たされないのは何故か?
それは・・・
魂(本質的な意識)の視点
が欠けているからだ。
だから、スーパーマーケットの棚に商品が並んでいるかのごとく、スピリチュアルに対して・・・
「なんか怪しい」
と思う感性は、ある意味当たっていると言える。
何故なら、安易にショートカットしてエゴを満たせると歌う事に対して、真っ当な感覚を持っていれば怪しさを感じるのは当然だからだ。
エゴと神
一例をあげてみよう。
この問題は・・・・
神(魂・本質的なあなたの意識)
が感じているのか? 指向しているのか?
それとも・・・
エゴ(今自覚している私)が感じているのか、欲しているのか?
で考えるといいだろう。
エゴ的な欲求というのはどういうものかというと、一般的な私達の日常意識が感じたりするもの。
一方、神(魂)的な欲求とは本質的に私達がこの世界で体験・認識したい事といえる。
ユニークな事にこのエゴ的な欲求と神的な欲求は一致するケースもあるが、多くの場合相反するケースがある。
例えば会社をリストラされたとしよう。
エゴ的にはこの場合大変苦しい。
なぜなら慣れ親しんだ環境から放り出されるわけだし、 何より給料がなくなってしまうので 転職なり独立するなりして、自分で稼いでいくしかなくなる。
しかし、神(魂)的な欲求や感覚としては、このリストラにより歓喜している場合がある。
何故なら、このリストラがあったからこそ、予定していた方向性に人生が進むケースがあるからだ。
だからもし、今、リストラや失恋や離婚、寿命などで親しい人との別れがあり、苦しかったとしても魂の神的な意識ではそれは既にスケジュールとして決まっていた事で、それにより意識の浄化が達成されたり、魂の成長のイベントとして行われたという視点を持ってみよう。
それが出来た時、エゴ的な視点から神・魂的なあなたの視点へ意識がシフトしていく。