「悟った場合、エネルギー的にとか、人格的に何か特徴はあるのでしょうか?」
と言う質問を頂いたと言う話の続きだった。
前回の話はこちら
その話の続きで、結論から言ってしまえば・・・・
「必ずしも特徴があるとは限らない」
と言う話になってくる。
この辺の詳細は本にもまとめたが、話が結構複雑なところ。
「リアルさん、じゃー何の特徴も無いのですね」
という話もあるかと思う。
これは「必ずしも」と書いてあるように・・・
「必ずしもあるわけではないが、ある場合も多い」
というような意味。
例えば瞑想を深めていくと自己がある意味変容していく。
- 私という意識が拡がったり
- 他人と意識を共有できたり
- エネルギーを受信・発信出来るようになったり
- 特定のチャクラが活性化して、関連する能力が開花したり
- 脳の機能が亢進したり
- プラーナの増量により体力の向上や若返りが起こったり
などなど。
だから、俗にいう超感覚が発露したりするケースは多い。
ただ、この辺は個性(カルマ)とかやっているワークの体系にもよる。
カルマというのは、仮に前世でそういった修行を多くしていたら自然とその傾向が現れる。
これは精神世界だけに限らず、運動でも芸術でも仕事の傾向でも全般的に言える話。
また、ワークの体系というのは例えば・・・
- エネルギーを扱うヨガ
- 全てを切っていく禅
この2つの体系では・・・
「どこにフォーカスして伸ばしていくか」
というアプローチが違うので、超感覚の発達度合いに多少の差が出てくる。
多少の差というのは、結局どんな体系の修行を行っても、個性というか持って生まれたものが発露するという話になってくる。
だから、瞑想が深くなったり進んでも、必ずしも能力的なものが出てくるわけではない。
わかりやすく言うと、凄い霊能者がいたとする。
人をリーディング出来て
未来が予知できて
エネルギーをある程度扱える
と言う感じで、普通の人から見るとカリスマ的に見えるケース。
がしかし・・・
・日々悩みまくっている
・過去や人に対しての腹立たしさが止まらない
ケースだってあるわけだ。
こう言った場合、悟りとか覚醒とはちょと違うねみたいなイメージ。
逆に霊能力的なものは全く無い。
でも、日々の生活において・・・
「理由はないけど、何だか幸せが溢れてくる」
「私の人生はこれでいいのだ」
と自分や他の存在を全肯定出来るとする。
ちなみに、これはポーズでは無く心の底からそう思えるかという話。
この場合は能力的なものは平凡だが、覚醒・悟りの状態と言っても良いケースがある。
もちろん、人生なので様々なことが起こった時に心乱されることはあるだろ。
しかし、長くひきづることなく納得するみたいな。
間違っても、何年も前に起こったことで・・・
「絶対にあいつは許せない!!!」
みたいな感情や考え方にはならない。
達観するわけだ。
まあ、この達観というのも厳密にいうと無気力や最初からの諦めの達観では無い。
よくスピリチャルや瞑想者に多いパターンだが、心の底では不満があったり納得していなくても・・・
「私はスピリチュアルだからガツガツしないわ」
「神様が全部やってくれるから、私はやる事ない」
みたいに、自分でも気づかない内にポーズとして達観している場合があるが、これは本当の納得とは言えないので却下となる。
このように、霊能力と悟りや覚醒とは必ずしも相関関係があるわけではない。
次に人格的に変化するかについて
続く・・・