昨日、YouTubeを何気に観ていたら・・・
「映画エイリアンのテーマは神なのだ」
という内容だった。
岡田 斗司夫という有名らしい人が解説している動画で、監督のリドリー・スコットについて熱く語っていた。
リドリー・スコットというのは名前は聞いた事があったが、詳しくは知らなかった。
有名なのでおそらく知らないうちに彼の映画は何本か観ているはず。
この監督のリドリー・スコットはブレードランナーやグラディエーターなどにも関わっているらしい。
で、岡田さんが言うにはブレードランナーにしろエイリアンにしろ「神」がテーマだという話。
詳しくは動画を観て欲しいのだが、簡単にいうと神と人間の関係というか・・・
「なぜ神は私達人間を作って放置しているのか?」
というようなニュアンス。
例えばエイリアンの映画「プロメテウス」ではエイリアンに遭遇するのでエイリアンの物語だと思われがち。
しかし、実は我々を作った存在(宇宙人?)を探しに行くときにアンドロイドのデヴィッドを連れていくのがポイントだという。
つまり、アンドロイドのデヴィッドにとって神(創造主)は人間であるが、その神が自分自身では観たこともない「神」とやらを探しにいくアイロニーな物語であるという。
岡田氏によると、このアンドロイドのデヴィッドという名前にも意味があって、エイリアンという映画もブレードランナーと統合していくのではないかと推測していた。
「なるほど、なるほど」
と思いながら解説を聞いていたが、まあ、確かにリドリー・スコット監督の構想というか思いを考察する事はある種興味深い。
神に対する不信感や怒りを伴った探究心ともいうのだろうか。
これは私達日本人だとわかりにくいが、日本人が思い浮かべる神と西洋人が思い浮かべる神は違ってくる。
西洋人というとざっくりしすぎだが、セム系の神というのは・・・
- 神はこの世界と生き物を作った
- 人間に戒律(どう生きていくのか)を作った
- 全ての行為に賞罰を作った
みたな話になってくる。
これはユダヤ教であれキリスト教であれイスラム教であれ、細かい違いはあるがだいたいは似たような感じになっていると思う。
言ったら、リドリー・スコット監督もこの圏内の出身なので生き方というか考えかたものこのフォーマットにのっとっている。
だから、色々と納得のいかない事があり、映画のテーマにしたのだと推測する。
しかし、神という概念の捉え方を変えると全てとはいわないが、半分以上解決する。
それは今言ったようなセム系の神という捉え方ではなく、インドのサーンキャ哲学でいう神の概念を指す。
この辺の詳しい話は「バガヴァッド・ギーターの講座」で話始めているが、少し解説するとサーンキヤ哲学では神の事を「パラアートマ」と呼ぶ。
パラアートマはこの世界や生き物を作っただけでなく、その全ての中に「いる(在る)」
つまり、創造主でありながら行為者なわけだ。
つまり私もあなたも「パラアートマ」が動かしている。
今、この瞬間もだ。
「リアルさん、そんな事を言っても全然そんな気しないよ」
と思うかもしれない。
それは私達がこの世界を「言葉」「思考(心)」をフィルターとして知覚しているからだ。
だから言葉と思考を使えば使うほど、ある意味、神(パラアートマ)を理解するというということからズレてしまう。
なので、古今東西の行には言葉と思考を超える「瞑想」「祈り」などが行われているわけだ。
なにを言いたいかというと、確かにリドリー・スコットが作品で表現したい意図もユニークだが、セム系の概念以外に目を向けてないのが残念といういう事と、言葉や思考を超えるプロセスを経ることなく、その思考や言葉だけでの解明はより混迷を招くという流れに入ってしまっている感はある。
まあ、とはいえそれさえもパラアートマ「神」がやられている事なので、それもまた表現形態の一種と言えなくもない。