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エゴを持ったままでもいい 瞑想と魔と神聖な意識

前回はオラオラタイプのスピリチュアル版のお話だった。

前回の話

瞑想やスピリチュアルで魔が入ってくるケース

今までダメダメタイプにしろオラオラタイプにしろ、これらはスピリチュアルに限らず人間の一般的な傾向というか特性と言える。

ダメダメとオラオラの混合タイプ

また、今は便宜上にダメダメとオラオラを分けているが、これらは普通は混在している。

例えば…

ダメダメ 30%

オラオラ 70%

など環境や人や時期によって、どれが出てくるかが決まるのでオラオラの人でも急にダメダメになってしまったり、その逆も存在する。

いったら今までお話したようなダメダメ・オラオラの傾向は強さの強弱や大小はあれど、誰の中にも存在する要素だとも言える。

個性の一部

正直に言うとこの2タイプは私自身持っている。

今は昔ほど強くはないが、それでも時折感じる。

そう言った経験があるから魔を細かく知ることも出来るし、相手の状態を理解する時に参考にもなる。

こう言ったダメダメやオラオラも言ったら個性の一部だとも言える。

だから、別にそれ自体が悪いとか良いとかいう話でも無い。

それぞれの要素にメリット・デメリットを兼ね備えているからだ。

エゴを削る

とは言え、ダメダメにしろオラオラにしろシチュエーションや出る具合によっては当然、チャンスを逃したり反感を買って反動があるので適度にコントロールすることは必要だ。

言ったら、この辺は古来からスピリチュアルではエゴとされ削っていく対象とされている。

だから、出家や僧侶などの制度が出来上がり、この世の義務や魅惑(魔)的なものから遠ざかるシステムが作られているわけだ。

ただ、この一般世界。

仕事をしたり家庭を持ったりして普通に生きる我々はこの魅惑的な魔にどっぷり浸かっている。

魔は常に

おまけに、ダメダメとオラオラで解説したように各々の個性や特徴や欠点に寄り添うように魔が忍び込む。

いわゆる私達のエゴと魔は寄り添っていると言っても過言ではない。

では、そんな私たちは神聖なる意識に満たされるのが可能なのだろうか?

可能である。

神聖さとエゴは共存可能

なぜなら、エゴはエゴとして存在しても構わないからだ。

なぜなら、エゴは生物的には生存を助けてくれるナビゲーターでもあるからだ。

また、個性の一部とも言える。

もちろん、あまりに対人関係や生活に支障が出るのなら修正していかなければならない。

しかし、それは通常は在っていい。

ただ、知っていて欲しいのは私達は…

エゴであるとと共に神聖な意識でもある

と言う事実。

エゴがあったまま。

時折、魔にやられてもても

本質としては神聖な意識の表れとしてあると言うこと。

また、それに意識を合わせればエゴを超えてその状態を知ることが出来る。

体験することが出来る。

しかしながら…

エゴを持ったまま神聖さを体現出来ると言う話だが、これはあくまでベースとしての話。

確かに本体としては私達は神聖な存在ではあるが、それが表面に輝き出ているかどうかは別問題という話になってくる。

「そのままでいいや」

と言うことで…

  • 好きなだけ酒を飲んだり
  • 好きなだけ大食いしたり
  • 感情のままに発言、行動したり
  • ダメダメで悩みまくったり
  • オラオラで本能のままに動いてり

していると、それもまたやっぱり少し違うという話になってくる。

もちろん、この辺はカルマというか個人差というもの出てくる。

例えばお酒。

私はアルコール耐性がゼロなので柴漬けでも酔っ払ってしまうが、水の代わりにワインを飲む人だっているわけだ。

このようにお酒一つをとっても個人差がある。

では一体どうしたらいいのだろうか?

続く…