今日は前回の話の続き
抜粋
私達人間の意識・身体・DNAは仏教徒でもヴェーダ(ヨガ)でもキリスト教やスーフィーでも同じなわけだ。
だから、ある一定以上の認識になると、呼び名や定義は若干違うが似たような意識状態になってくる。
それが今言った…
「私はこの身体では無かった」
「私は自我(普通の私という意識)では無かった」
というのは結構共通して現れてくる現象というか、意識状態だとも言える。
というところまでだった。
例えばインドのアドヴァイタで有名なニサルガダッタ・マハラジもこの身体と自分が一体化していることが問題だと言っている。
ちなみに、このニサルガダッタ・マハラジについて以前ブログで書いた事がある。
前のブログにいつ書いたか今見たら16年前にもマハラジについて書いてあった。
という事で、マハラジの言葉を載せておこう。
抜粋
意識以外の誰が意識に気づくことができるだろうか?
他に何か実体があるだろうか?
意識はそこにあり、それは常に自分自身に気づいている。
問題は、意識が肉体と一体化していることだ。
ただ、意識と肉体を一体化しないこと、これだけを注意していなさい。
ー「意識に先立ってより」
なぜ身体と意識が一体化、つまりこの体が「私だ」と思っていることが問題なのか?
それは問題や苦しみの大半がこの「体」とそれに紐づけられた「私」に関連したものだからだ。
また、実際には苦しみというものはその物事自体にあるのではなく、その状況を受け入れられないという状況によって苦痛になる。
逆に言えば受け入れられれば、それは一般的にいう苦痛とは違った違った状況になる。
リンクした昔のブログの言葉も抜粋すると…
抜粋
もし、あなたが快楽や苦痛の瞬間にある自分を見てみれば、楽しみや苦痛がものごと自体のなかにあるのではなく、状況の中にあるという事を見るだろう。
楽しみは楽しむ人と、楽しまれるものとの関係性の中にある。
そして、その本質は受容にあるのだ。
状況がいかなるものであれ、それを受け入れる事が可能ならば心地よく、受け入れがたいならば苦しいのだ。
何がそれを受け入れられるようにするかは重要ではない。
原因は物質的、心理的、あるいわ理由がわからないかもしれないが、受容がその決定原因だ。
相対的に、苦しみは受け入れない事によるものだ。
という話になる。
このように、上座仏教(原始仏教)でいう悟りの最初の段階である預流の定義である…
「私はこの身体では無かった」
「私は自我(普通の私という意識)では無かった」
というのは、マハラジも言っているように悟りや覚醒において共通して現れてくる認識とも言える。
ただし、ここである種の問題も生じる。
例えば良くある例として…
「気づくことが悟りなら今、気づいているこの状態が悟りなのですか?」
という質問もあると思う。
また、この気づきを行うワークではダグラスハーディング氏なども有名。
https://www.headless.org/japanese/pointing.htm
本も何冊か出版されているし、上記のサイトのようにワーク出来たり実際にワークショップに行った人も中に入るだろう。
これらの本を読んだりワークをしたりして…
「これに何の意味があるんだろう?」
という人もいるかもしれないが少し意識が明瞭な人なら…
「ホントだ!私は気づきだったんだ!」
と実感する人も多いと思う。
このように…
「気づくことが悟りなら今、気づいているこの状態が悟りなのですか?」
というようなケースと、ダグラスハーディングのワークで気づきの状態。
これらと仏教でいう預流やマハラジがいう状態と何が違うのだろうか?
ここが非常にわかりにくい部分ではある。
私も昔はわからなかった。
「気づきが悟りなら、これがそうではないか」
「気づきに気づいている意識が悟りなら、もうそれではないか」
などと感じていた。
ちなみに、気づきに気づいているという言葉が出たが、これもよく言われ言葉。
例えば、今あなたはこの文字を読んでいると思う。
その文字を読んでいる眼の奥にいる「私」という感覚があると思う。
その「私」に更に気づいている「私・我」の存在を察知出来るだろうか?
ある意味、その存在に気づくことは悟りや覚醒というか、ある種の意識の進化において重要な要素ではある。
しかし、それを以て仏教でいう預流やマハラジのいう状態であるとは言えない。
では何が違うのだろうか?
続く…