忙しくて後で読みたい場合はLINEに登録してください(こちらをクリック)

ラーマクリシュナとありがとうで遭遇した光  感謝の言葉とヒーリング

前回はありがとう村に行ってきたという話だった。

また、私達にはカルマというものがあり、そのカルマを解消する方法が色々あるという事だった。

神秘体験をするコツ 不眠や断食などで起こるケース

 

ありがとうで現れる光

 

今日はその続きの話。

ありがとう村に行った当時の感想としては…

「確かに凄いんだろうが、あまり興味は無いな」

という感じだった。

なぜなら、ありがとうございますと唱えるだけなのでシンプルすぎて興味が湧か無かった。

言ったら、約1000年前に法然が広めた浄土宗で唱える南無阿弥陀みたいな感じで、結局、瞑想出来ない人達がやる簡易バージョンぐらいの認識だった。

しかし、ある時、その認識は打ち砕かれる。

ヴィパッサナー瞑想のリトリートに入った時だった。

10日間のリトリートだったのだが、初日に体調がエラく悪化した。

頭痛
吐き気

に襲われてトイレに何度も駆け込んだ。

それを見かねた先生が…

「本当はサティで乗り切った方が理想ですが、今回はありがとうございますと唱えてください」

との指導が入った。

「ありがとうございますか、ここにも来たか…」

との思いもあったが素直に指導に従った。

体調が悪化していたので座れずに布団に入って目を閉じて、意識の中でマントラのように…

「ありがとう」

「ありがとうございます」

と唱え始めた。

数分すると不思議なことに目の前が明るくなりはじめた。

チャクラが見える時の光とは若干違って、陽の光が射してくる感じに近い。

その光と共に力も復活し始めた。

「なんだろう?これ」

と思いつつも、20分くらい唱え終わった時には不快な症状は消えていた。

「あれっ? ありがとうございますが効いたのか?」

という感じになった。

今思えば祈りによってパワーや光を降すというか、同調してシャクティを引っ張ってくるのを体で理解し始めたのがこの頃だった。

それまでも意識の力でエネルギーをコントロールする方法はマスターしていたが、神聖なパワーとどう繋がったらいいかを理解し始めた。

 

ラーマクリシュナ曰くバクティ最速説

 

ありがとうございますという祈りはシンプルだが、シンプルゆえに高度とも言える。

この辺はラーマクリシュナがバクティ・ヨガ(神を愛する道)は最速の道と言った意味がわかる。

ラーマクリシュナは有名なので知っているかもしれないが、この方はインドの聖者。

シュリ・ラーマクリシュナ・パラマハンサと呼ばれ1800年代の聖者。

 

特徴としてはバクティ、つまり神への愛を最も重要視していた方。

Amazonでも本が出ているので興味がある人は読んでみるのもいいと思う。

色々な逸話があるが、聖典や儀式的なものは重要視せずにひたすら神を愛する道を説いた。

 

例えばインドではよくジャパマラ(数珠)を使ってマントラを唱えるがラーマクリシュナ曰く…

「最初はジャパマラを使ってもいいが神に満たされるとそれさえも忘れる、方法は重要では無く愛こそが全てだ

みたいな逸話がある。

 

実際、ラーマクリシュナは祈りの状態になると忘我の状態になりしばらくフリーズしてしまう。

これはラーマクリシュナでなくても神聖なエネルギーがやってくるとそうなることがある。

でだ、このラーマクリシュナ曰くバクティこそが最速で悟りをもたらすという。

まあ、ただ言ってみれば自分が体験したものや、やっていることが一番いいみたいな話になってくる傾向がある。

 

例えば瞑想で言えばシヴァ派の瞑想をしている人々やグルは…

 

「静寂の瞑想こそ最速である」

 

と言ってたりするわけだ。

 

この辺は取り組む人のカルマとか向き不向きや縁にもよる。

 

ただ、実は座って静寂を追求するメソッドの場合でも、このバクティの要素は必要不可欠だ。

なぜなら、この自己を超える時にそういった要素が無いとどうしても壁にぶち当たる。

であるから、瞑想においても対象は行っている体系にもよるが、自己を超えた聖なる存在に委ねる。

涙が出るほど愛すというのは物凄いコツになってくる。

例えば「私は誰か?」で有名なラマナ・マハルシは座って行う瞑想と同じくらいアルナーチャラ山に対する信仰と愛を持っていたという。

 

ということで、ありがとうございますの祈り、もっと言えば言葉は必ずしもありがとうでなくてもいいが、感謝の念や祈りは自分より偉大な何かに接続する重要なファクターだということがこの時期から肌でわかってきた。

 

結局、悟りや覚醒という認識が起こるのも私達人間の努力というよりも神の恩寵でしかない。

感謝せず、愛せずしてどうやってその恩寵を受けとることが出来ようかという話になってくる。