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思考が無ければ「それ」はやってくる <瞑想の根本的な仕組み>

前回の記事では「基本楽しい」という話をした。

カッコ良く言えば・・・・

「人生は祝祭だ」

みたいなラジニーシ風な話になってくるという話だった。

昔はこういう話は一種の「綺麗事」だと思っていた。

しかし、違った。

実際に何気ない日常がアメージングな瞬間に満ちてくる。

何か特別な事がなくても。

例えば・・・

・給料が振り込まれた
・人から褒められら
・探し物が見つかった
・美味しいご飯を食べた
・欲しいものがゲットできた

などのことがなくても喜びが溢れてくる。

「いやいやリアルさん、あなたは色々やったからそうなったんでしょ?」

と思うかもしれない。

確かに色々やった。

瞑想的なワークもそうだし他にも色々やった。

また、特定の瞑想テクニックはそれなりの効果はあるのである種の意識状態を作り出す。

厳密にいうと作り出すというよりは、意識の一つバリエーションを顕在化させて自覚出来るようにすると言ってもいいのだが。

しかし、今思えばそれらは確かに有効ではあったが、絶対的に必須であったとも言えない。

それはどういう事かというと、少なくとも私にとっては必須であったが、誰にでも当てはまるわけでは無い。

私にとって必須というのは、自分の場合は仕事として瞑想や神様に繋がる話やワークをしているので、ある程度話のネタというか、経験値が必要とされるのでその分余計に経験させられたと言っていい。

そうではなく、自分一人で静かに「それ」を味わうのだったら、こんなに色々と経験する必要性も無いという話。

瞑想だと話がわかりずらいかもしれないので、例えば学校の先生を上げてみよう。

2人の先生がいて、一人は真面目で優等生タイプ。

学生時代から真面目で教員になったタイプ。

普通に授業を教えるのは出来る感じ。

このような先生の場合は普通の生徒だったら充分に対応できる。

しかし、不良の生徒がいるとダメなわけだ。

対応出来ない。

実際に私も中学時代に目にしたが、朝から遅刻してきて缶コーラを飲んで、休み時間は喧嘩して放課後はバイクに乗っているような生徒に対して真面目な先生は何も出来なかった。

ちょうどあの頃は「金八先生」が流行っていて、一番学校が荒れていた時期なのでそういう生徒はそこそこいた。

なぜ対応出来ないかというと、真面目な先生は真面目だったので、不良の気持ちがわからないし、何を考えているかわからないからだ。

もっとも、真面目な先生でも情熱というか人間性が高ければなんとかはなるのだが、そうとは言え相手の気持ちはわかった方がいい。

一方、ヤンキー先生みたいなカテゴリの先生もいるわけだ。

昔悪くて更生したみたいな。

そうしう先生の場合は自分に経験値があるし、相手の気持ちもわかるので、そういった「荒れている」生徒への対応力も高くなってくる。

なんだか話が脱線したが、瞑想系というかこのスピリチュアルな世界も一緒で、ある程度、色々な技法や経験を積んだ方が人に教えたり伝達する時に有利だという話。

ただ、それは教える時に必要なのであって、そうでなければもっとシンプルという話なわけだ。

シンプルというのは、要は自分の思考が邪魔しなければ、「それ」は「それ」として発露してくるという話。

この「私」が邪魔している。

この「思考」が邪魔している。

その「思い込み」が妨げている。

ただそれだけだ。

凄くシンプルだ。

それを行う為のメソッドとしての瞑想があると言ってもいい。

もっとも・・・

シンプル=簡単

というわけでも無い。

シンプルだからこそ難しいという事もある。