今までの話は癒し・ヒーリングの話から、悟りは言わば人生のヒーリングとも言えるという話だった。
抜粋
悟りの概念にも様々なものがあるが、シンプルに言えば別に特殊な能力や神秘的な現象に遭遇しなくとも、ある程度の人生経験を積んで、このような心境になった時これはある種の悟りとも言える。
もっとも、この辺の納得感は人(カルマ)によってだいぶバラツキがあるというか違ってくるし、覚醒という意識状態の観点から言うと様々なバリエーションがある。
ということで、今日は話の続きから。
ではどのように覚醒や悟りにバラツキがあるかというと、例えば仏教(上座仏教)だと…
- 預流
- 一来
- 不還
- 阿羅漢
のように4つに分類されている。
「リアルさん、預流ってなんですか?」
という質問もあると思う。
ただ、Google検索して出てくる話は今日は書かないので、興味がある場合は用語を検索して欲しい。
ここでは裏話というか「実際は◯◯なんですよ」みたいな話をしていこう。
こんなことをいうと怒られてしまうかもしれないが、この悟りの分類で4つあるというのもある意味マーヤ(幻想)である。
私も以前、ヴィパッサナー瞑想(上座仏教)をやっている時に疑問に思った。
「悟りの種類って4つあるけど、実際にどうなだろう?」
と疑問を感じたわけだ。
そこで、上座仏教の僧侶に聞いてみたところ…
「お釈迦様の時代は悟っているかいないかの2つしかなかった」
という話。
つまり、仏教の開祖であるお釈迦様が存命の時は悟っているかいないかだけで4つも種類はなかったらしい。
ただ…
「あの人は悟ったと思ったけど、なんか違うんじねえ?」
というケースが色々出てきて、後の人が分類した結果が4つの悟りのグラデーションになったという話。
だから仏教の開祖であるお釈迦様が分類したならともかく、後の一般人(厳密に言えば違うが)がああでも無いこうでも無いという分類をして決めたことなので、ある意味マーヤ(幻想)だとも言える。
その証拠に同じ仏教でも上座仏教以降の教えでは更に定義が変わってきたりする。
これが仏教以外の体系を考慮すると、更に話が複雑になってくる。
その仏教以外の話は話が広がってしまうのでまた次回するとして、悟りや覚醒の一つの目安を紹介しよう。
上座仏教では悟りの段階が4つあるという話はしたが、その最初に…
「預流」
というのがある。
これは色々な定義があるが、その一つをシンプルに言えば…
「私はこの身体では無かった」
「私は自我(普通の私という意識)では無かった」
みたいな自覚というか認識が出てくる。
出てくるというと軽い表現だが実際は衝撃だ。
どのくらいの衝撃かというと、人によっては死んでしまうほどの衝撃。
あと、仏教をやっていてこの状態になった場合はブッダやその教えに「信」つまり絶対的な確信が出てくるわけだ。
ちなみに、他の体系でこの意識状態になった場合やその体系に準ずる「信」が出てくる。
例えばキリスト教だったら、ブッダに対する信とは言わずに「主」に対する「愛」と言ったり。
ヴェーダだったらブラフマンだったり、シヴァだったりカーリーだったり。
まあ、厳密に言えば上座仏教をやっている人はその体系以外の悟りは認めない傾向があるので、こういった話は受け入れないだろう。
ただ、私達人間の意識・身体・DNAは仏教徒でもヴェーダ(ヨガ)でもキリスト教やスーフィーでも同じなわけだ。
だから、ある一定以上の認識になると、呼び名や定義は若干違うが似たような意識状態になってくる。
それが今言った…
「私はこの身体では無かった」
「私は自我(普通の私という意識)では無かった」
というのは結構共通して現れてくる現象というか、意識状態だとも言える。
例えば…
続く…