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覚醒意識と水と魚とインパクト

私が覚醒意識に触れたのは・・・・

というところからだった。

前回までのお話「悟りと覚醒と成熟度」

厳密に言えば覚醒意識に触れるも触れないも無い。

なぜなら私達は「これ」と隔たっているわけでは無いから既に「これ」なわけだ。

これはアドヴァイタなどで良くいうところの

「あなたは既にそれである」

「眼は眼自身を観ることが出来ない」

のような謎かけみたいな言葉となって伝えられている。

これは・・・

「わからない」

うちはどんな説明を聞いても

「わからない」

しかし・・・

「わかって」

しまえば

「ああ、確かに・・・」

となる。

また「観照」とか「見る者」とかいう言い方もされる。

ヒンドゥー教ではサット・チット・アーナンダとか純粋意識とか。

この辺は頭で色々考えたりしても逆に混乱しがち。

文字や言葉では伝わらないわけだ。

しかし、伝わらないけど伝わるという側面もある。

これはどういう事か?

例えば目の前に可愛いワンコがいる。

猫でもインコでもいいのだが、とにかくある程度の知能を持った動物がいると仮定しよう。

そのワンコに向かって、犬好きの人が・・・

「可愛い子ワンちゃんね! お散歩でしゅか〜」

「いい子だね〜」

と声をかけると言葉をかけるとワンちゃんも尻尾を振って嬉しそうにしている。

これは犬には言葉

「可愛い」

とかの単体では伝わらないが、本当に犬好きの人が愛情を込めて発すると伝わるわけだ。

逆に言えば犬嫌いの人が・・・

「ケッ あっちいけ、ク●犬が!」

と思いながら可愛いねとお愛想を飼い主に言っても・・・

「ウッ〜 ワンワン!!!!」

と威嚇されてしまうだろう。

これが言葉では伝わらないが伝わるの具体的な例。

覚醒や悟りもこれと同じで、言葉では伝わらないがエッセンスみたいなものは伝わる。

もちろん受け取る側にある程度の下地がないと無理だが、カルマ的に時期がきていたら視線や一言で完了してしまうケースもあるだろう。

だから、私はitの講座などでエネルギーの共鳴作用を使って伝える事が’ある程度は出来るわけだ。

その兆候が「酔い」や「至福感」となって顕われ始める。

前置きが長くなってしまったが、私が自覚的に覚醒意識を認識し始めたのは30代の頃だった。

以前の記事でもお話したが、それまでも偶発的にはそれらしきものを感じた事はあった。

しかし、自覚的に認識し始めたのはやはり30代になってから。

10代や20代の頃は・・・

「観る意識って『これ』の事だよな?」

との自覚はあったし、それは間違いでは無いのだが、実はほんのプロローグにしか過ぎないので当然の事ながら納得してはいなかった。

この辺はアドヴァイタの本やクリシュナムルティの本を読んでハマったの「あるある」だと言えよう。

その自覚は間違いでは無い。

なぜなら「これ」は全てに浸透というか、この世界や私たちを成り立たせているファンダメンタルなので、気づきに気づいている意識の存在を自覚し始めたらそれは既にある意味正解とも言える。

しかしながら、あえて誤解を恐れずに言えば決定的に欠けているものがある。

強さだ。

インパクトだ。

例えば今、あなたは自分の腕に

「かる〜く」

「そ〜と」

シッペをしてみて欲しい。

軽くシッペをすると、触覚としては

「当たった」

感じがするが、痛みまでは感じない。

しかし、思いっきりシッペをすると・・・

「痛い!!!!」

となる。

これと一緒で大元である純粋意識も例え方向性が正しくとも、通常モードでは在るんだか無いんだかわからん状態になっている。

これも良くいう例えだが、魚は水の存在をおそらくは自覚していないと思う。

なぜなら、水の中で生まれて水の中で育って、周りが全部水なのが当たり前すぎてその存在を認識出来なくなっている。

つまり弱いわけだ。

しかし、人間に釣られて水から出るとパニックになって口をパクパクさせる。

その時に初めて・・・

「なんか違う、苦しい!」

で、釣り人がそこでリリースしてやって水に帰ると・・・

「あっ! これや! これや!」

となるだろう。

このように魚が水の存在を自覚するのには、ある種の強さというかインパクトが必要になるわけだ。

では、そのインパクトはどうやって出していくというか、セッティングしていけばいいのか?

続く・・・・