今日は体験談をシェアしてみる。
瞑想しても壁にぶち当たるケース
動画でも解説しているが文章で補足してみよう。
いくつか特徴があるが、最初にあるのが・・・
「ハートが開いた」
という事。
このハートが開いたことによって、様々な体験や認識が起こるというのは多い。
例えばの話。
瞑想に深く入りたいと思っていても、なかなか自分の中の壁を超えられないケースがある。
例えば、瞑想を一生懸命して・・・
・思考が停止する瞑想状態が続く
・呼吸もほぼ停止する
・自分の体の感覚が消える
・光(チャクラ、ニミッタ、丹光)が見えてくる
・自分の体から離脱して意識だけの存在になる
などの体験があっても・・・
「これだけじゃないハズ」
「もっと何かあるに違いない」
「なんか違う、もっと・・・」
と思ったことは無いだろうか?
私自身、そう思った。
瞑想により一定の成果というか状態にはなるのだが・・・
「だから、何?」
みたいな状態。
神秘体験には飽きる
確かに最初は興味深い。
光やヴィジョンが見えたり、対外離脱したり。
ただ、なんでもそうだが慣れてしまう。
最初は面白いし、新鮮な体験だが何度も繰り返すうちに・・・
「まあ、こんなもんだよな」
という状態というか心理になってくる。
だから・・・・
「これが終わりじゃ無いハズだ、なんか違う、いや、どうなんだ?」
というのがかなりの期間続いた。
でだ、ヴィパッサナー瞑想を学んだ時に、チャンティングとか慈悲の瞑想を習った。
正直、最初は・・・
「伝統的な手法なんで、儀式というか形式的なものだろ?」
との思いがあった。
祈り ハートの重要性
しかし、これが違ったわけだ。
祈り
慈悲
現代的に言えばハートが開くというか・・・
「そっちの方を開かずしてその先無し」
ぐらい重要。
例えば翼。
飛行機にしろ鳥にしろ、左右の翼が無いと空は飛べないわけだ。
なので・・・
右の翼=瞑想 左の翼=祈り(慈悲・ハート)
ぐらい重要。
逆に言えば、本当の意味で祈りの状態になったり、ハートが開けてくると、今までやってこなかった瞑想状態が訪れる。
恩寵
ってやつだ。
なかなか言葉で表しにくいが、この辺は超重要。
そうなって初めて、本来の人間としての意識というかモードになると言ってもいい。
これが終点ではなく、ここからが本来のモード。
それによって、私たちはこの世界を本来の意味で味わうことが出来るとも言える。