前回は画質と物語というテーマで悟りや覚醒について解説した。
前回のお話
悟りとMiniLEDと火花と物語
今日はもう少し掘り下げていこう。
こういう分野の仕事をしていると時折…
「大麻はどうなんですか?」
「アヤワスカをやってもいいですか?」
「◯◯は瞑想の涅槃に近いって本当ですか?」
みたいなドラック関係の質問を頂くことがある。
ドラックは画質に相当
ちなみに、日本では違法だが海外に行ってやったり、もしくは隠れて日本でもドラックを使ったワークを行っている場合がある。
だからこのような質問がたまに出てくるわけだが、結論から言えば前回の話で取り上げた…
「画質」
の問題だとも言える。
ドラック、これは天然かケミカルかを問わずに、脳に働きかけてある意味画質を鮮明にするわけだ。
画面に例えると安いPCでTN (Twisted Nematic) 方式の画像が有機EL (OLED) 方式に変ったのごとく鮮明になる。
その結果…
- 視野が鮮明になったり
- 光り輝いて見えたり
- オーラなどが見えたり
- 神々や精霊が見えたり
するわけだ。
認識や記憶を持ち帰れない
ただし、言ったらPCに例えると画面が綺麗になっただけで物語性の要素が欠けていると、なんか面白い体験だったなで終わってしまう。
また、物語性という意味で言えばドラックによって深い洞察を得る場合もあるようだ。
しかしながら、その洞察は通常こちら側の世界へ持ってこれない。
あなたも夢の記憶を正確に目覚めている意識では憶えていられないように、ドラックを使った悟りの認識もこちらの世界へは持ってこれない。
ドラックを使用している時の認識が悟りとは言えないが、これを仮に悟りだとしてもその認識はドラックの影響によってバイアスがかかっているし、それをこちら側の世界へ持ってこれないという話になる。
普通に考えてこれが出来るならば、お釈迦様だってヨガの聖者だって七面倒くさい瞑想や修行などという体系は産み出さなかったわけだ。
キリストだって愛を説かずに秘密のハーブをやりましょうみたいな話になってくる。
ということで、前回の話にもあったように悟りや覚醒を画面に例えると画質と物語の両方の要素があり、画質だけアップしてもあまり意味はないよという話になってくる。
ただ、メリット挙げるとすれば私も体外離脱によってスピリチュアルの世界に興味を持った経緯があるので、ドラックによって…
「自己の肉体や意識を超えた体験」
というものが道の探究のきっかけにはなるケースもままあるかもしれない。
意味による超越
ということで、画面の画質と同じように物語性が大事だという話になってくるわけだが、物語性とは…
「意味」
だという話をした。
なんにせよ意味がそこに見出せるのなら、特にプラスの意味が見出せるなら人は辛い状況に耐えられたり、ハッピーになるという法則がある。
また、意味を見出すことによって今の自己からの超越が可能になってくる。
これはどういうことかというと、仮に私たちの人生や日々起きている出来事が思惑を超えているとしたら?
また、アトランダムに物事が起きているのではなく、なんらかの一貫性を持ってプログラムのように起きているとしたら?
それは神を呼ぶべきもので、中長期的には私達に愛を注いでいくれるものだとしら?
何か苦境や困難な状況でもそれはある種必要でその先に意味があるとしたら?
そう言った意味がわかると物事の半分は解決に向かうとも言える。
ではどうやって意味を見出すのか?
インド占星術などの占いの体型はこの部分を星というメタファーを使って解釈していく強力な手法だが、必ずしもそれが絶対に必要だという話でもない。
自分自身でも洞察していくことは可能ではある。
2つの要素による洞察
これは簡単にいうと2つの要素がある。
プラスの要素
マイナスの要素
とも呼ぶべき2つの要素がある。
まず最初に自分の中にこの2つの要素を見つけていく。
自分の幼い頃からの体験を振り返っていって、この2つの要素を見つけていく。
プラスの要素
まずプラスの要素から。
プラスの要素というのは…
- 得意な事
- 好きな事
- 惹かれる事
- 努力しなくても普通に出来てしまう事
- 自然と環境が整っている事
- 情熱がある
などが挙げられる。
一般的には子供の頃からこの傾向が始まっている。
例えば私のケースを例に出すと、今、このような仕事をしているわけだ。
瞑想を教えたり、今もこうやって文章を書いたりしている。
この兆候は子供の頃からあった。
オリンパスのタイプライター
瞑想に関しては12歳くらいに体外離脱が始まったのをきっかけに、独学で色々とやり始めた。
文章については、何かを書くことにあまり苦労したおぼえが無い。
もちろん、小説家では無いので美しい文体で物語を書く事は出来ないし誤字脱字はあるが、書こうと思えば2000文字のブログ記事くらいだったら毎日自然と書ける。
また、こんなことをいうと多少あれだが文字にエネルギーを乗せることが出来る。
それによって、ある程度読んでもらえたり、また読んだ後に行動してもらったりすることが可能になってくる。
この辺の話をすると量が膨大になるので端折るが、あとは環境的にも私が子供の頃から家にオリンパスの英文のタイプライターが置いてあったので、それでカチカチとキーボードを打って遊んでいた記憶がある。
このように自分が得意だったり、環境が整っている場合の意味としては…
「そっちをやれ」
という意味に受け取っていい場合が多い。
狂おしい情熱
また、例え環境が整っていなくても情熱がある場合。
特に狂おしいほどの情熱がある場合はその分野をやるしかない。
逆に言えばこの狂おしい程の長期的な情熱があれば、多少、技術や才能が劣っても環境が悪くても上手くいくケースが多い。
私も文章を書くときは自分の意志でも、もちろん書いてはいるのだが何か熱のような巨大な力が私を通して表現を求めているような狂おしい状態だとも言える。
しかも、それは幸か不幸かある種の強制力を持っていて、こちらの好みに関係なく仕事をさせられている感も無くはない。
続く…