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気づき=悟り説  ニサルガダッタマハラジやラメッシバルセカールが語る覚醒の意識状態と気づきについて 意識が拡張する時と無我の関係性 瞑想プチ講座

今回は、気づき=悟り説

詳しくは動画を見てもらいたいんですが、文章でも解説していこうと思います。

気づき=悟りと言うと…

「それってどういうこと」

と思うかもしれません。

 

これはアドヴァイタ と言うジャンルというかカテゴリになります。

例えばニサルガダッタマハラジやラメッシバルセカール などの聖者さんなどが有名。

 

最近では、それから派生してネオアドヴァイタ などと言う分野もあります。

有名なところでは他にはクリシュナムルティなど比較的メジャーともいえます。

 

これらの人たちが言っている内容として一言で言うと…

 

「あなたは既にそれである」

 

と言うような内容。

 

「それ」と言うのは、悟りとか覚醒とかそういった意味ですよね。

 

例えばの話、動画でもお話ししてますが、すべての中で最も基本となるものは「私と言う存在感」と言え ます。

私と言う気づきや存在感があるからこそ、他のものが存在できる。

 

気づきがなければ何もできないわけですし、何も見えず、何も聞こえず、何も認識できない。

例えばの話、意識がなくなるほど お酒を飲んで酔っ払ってしまうと、何も覚えてないわけです。

 

また、夜 になって布団に入って寝るとその間の記憶は無いわけです。

 

それは、この「気づいてる状態」というのがなくなっているから、 外の世界はもちろん自分自身があると言うことさえ認識できなくなっている状態。

 

例えば、今あなたはこの文章をパソコンやスマホ、タブレットなどで読んでいると思います。

また目の前には机があったり人がいたり、部屋だったりカフェだったり、外には人が歩いてたり、車が通ってたり、カラスが鳴いていたり。

 

そういった全てのものは「気づき」というものがあってこそ、言い方を変えれば、あなたと言う存在があってこそ成り立っているものです。

 

「いや、私が寝ている時でも気づきを失っている時でも世界はあるんでしょう」

 

と思うかもしれません。

確かにそうとも言えますが….

 

「あなたにとっての世界は無い」

 

ということがいえます。

つまり、気づきが最も基盤としてある意識で、そこから世界が立ち上がっていく。

 

「私がなければ、世界もない私があるから、世界がある」

 

と言う話がアドヴァイタ の 概要とも言えます。

 

 

ここに来てあなたは思うはず。

 

「気づきが悟りだといっても、今の俺だって気づいてるじゃん」

「これがその状態だといっても、何も変わらないよ」

「確かに気づきの意識や見ると言う状態は、思考や想念 がなくなるけれども、ただそれだけでしょう」

 

これは確かにその通りで、気づきと言うものは、もっと深遠な何かの真理 を示しているような気も しますが、実際はほとんど何も変わっていない状態が認識されるでしょう。

 

例えば、クリシュナムルティの「自我の終焉」などの本を読んでも、本を読んでる最中や読み 終わった後はなんだか神聖な気分に なったりします。

 

しかし、数時間経つと元の木阿弥というか、わかったようなわからないような 状態に。

 

また日常生活で何かアクシデントがあると、それに巻き込まれてしまって、本を読んでいたときの神聖な気持ちは吹き飛んでしまいます。

 

ということで、気づき=悟りといっても、そういうこともあるのかもしれないけれども、自分は違うよなみたいな認識になるのが普通の状態。

 

このように、気づき=悟りだと聞いても、何も変わらない原因としては…

 

「気づきの深さと精度が足りない」

 

ということがいえます。

 

逆に言えば、この気づきの精度と深さが10分であるならば… .今のあなたと言う認識や、この世界の認識が崩れるはず

ともいえます。

 

では実際に 今この状態の認識が崩壊するとはどういったことでしょうか?

これはざっくりと分類すると2つのパターンにわかります。

 

まず1つ目は空の状態が強調されるケースで、2つ目はすべての状態を肯定するようになるケース。

まず最初の空の状態が強調されるケースとしては…

「私は無い」 ということが顕在化します。

これは日本で言えば禅 とかがどちらかと言うとそっち系統ですよね。

もう少し具体的に言うと、自分というものが本当に感じられなくなるケースもあります。

 

具体的に言うと首から上が存在しない。

この辺はダグラスハーディングの 本を読んだり、ワークをやったりした人はなんとなくイメージが掴めると思います。

例えば今あなたはこの文章を読んでいると思いますが、前に文字やディスプレイはあってもそれを読む「人」と言うのは事実ベースを言えば見つけられません。

 

もちろん、鏡を見れば自分の顔は写ってますし、周りを見ますと、普通の人間 の形態 の人がいて暮らしてますので、自分も同じように頭があって顔があって、その中の脳があって人間だから存在できて目の前の文字も読めると言う認識でしょう。

しかしながら実体験ベースと言えば…

 

「一つ目小僧」

 

状態。

 

この一つ目小僧 と言うのは1つの比喩で、実際に物理的には目は2つありますが、実体験ベースとしてづきの状態から言うと、でっかい 穴の中から外を 見ている感じ だと思います。

でその見ている穴の中の主体は「空」であると実感できるはず。

このように自分の主体はダグラスハーディング風に言えば頭がない状態だと思います。

ここまで説明すると…

 

「これが気づきの精度が深い 状態ですか」

 

と思うかも しれません。

 

しかし、本当のところを言うと、これでは全然足りない。

 

私も昔ダグラスハーディングの本を読んだ時はものすごくインパクトを受けて、軽い変性意識状態にもなったりしました。

がしかし、本当に 気づきの精度が深い状態になると 全く違うということが実感できます。

 

この辺の説明の仕方は難しいのですが、とにかくショッキング。

 

人によってはしばらく話ができなかったり、日常生活が送れなくなるほど

私の場合も体質も変わってしまって、半年間ぐらいは日常の通常モードには戻りませんでした。

 

次に2番目のケースとして、 空のモードが 強調されるとは別に自分が全部になる 体験があります。

 

自分が目の前の見てる風景や人、部屋や外を走ってる車、 鳥や 動物やビルや山や 頭上に広がっている空と一体化したりします。

この2番目のケースは 1番目の空の 体験と違うかと言うと、実は同じです。

ただ人によってまたやっていた修行体験によってどの部分が強く体験されたり、強調されたりするかの違いともいえます。

 

例えて言えば「窓」。

窓は壁がなく 何もないと言う側面もあります。

 

なしかし、見方を変えれば何もないからこそ、外への扉となって 外界の風景が全部見えるわけです。

 

このように空と言う属性と全て満たされているというか広がっていると言う属性は相反するものではありません。

 

ですから、その人の個性というか、属性によってどちらを強く体験するか、どちらを強く強調して表現するかによって、その体験内容の表現方法が変わってきます。

 

その表現が空に傾いた場合は、 空や無我の話が 多くなりますが、2番目のケースで満たされた場合は和尚(ラジニーン) のように…

 

「生命は祝祭だ」

 

みたいな 表現になります。

 

このように、実際、気づきの精度と深さが足りてくると 自分や世界に対する認識が崩壊というか変化していきます。

例えば、動画でも紹介していますが、ムージ と言う聖者さんのサットサンで 男性が 自分の意識が拡張した体験を話していますが、軽い感じでもあのような感じになります。

 

また、動画の男性の場合は、コーヒーとタバコで元に戻ってしまったみたいですが、 一定以上の強い体験が起こると、それが意識にインプリントされて残ります。

 

ですから一見、普通の状態には戻ったようになっても、意識に残っていますから、元の状態 には完全には戻りません。

 

この辺も、もともとの意識の状態が空であり、広がった全てである 状態ですから、戻るも戻らないもないわけですが。

ではどうしたらそうなるのでしょうか?

詳しくは動画で解説しているので、見ていただければと思います。

づづく…