前回は瞑想の段階が進んでくるとどのように変化してくるかという話だった。
抜粋
シディの合宿が終わって家で実習するわけだが、相変わらずフライング状態にはなるが、合宿して瞑想した時ほどは来なかった。
もちろん、至福の泡と言われる細かい泡状の感覚が全身を包み込みジャグジー風呂に入ったような感覚にはなるのだが、現金なもので体外離脱と同じでしばらくすると普通になってくる。
飽きてくるというと言い過ぎだが、慣れとは恐ろしいもので特別な感動も無い。
もちろん、普通になるとは言え、瞑想時以外でも至福状態に全身が痺れたように包まれる事も増えてきた。
ただ、正直なところ…
「これが私の求めていたものなのか?」
「もっと先があるはずだ」
などと物足りなくなってくる。
しかし、そうとは言えTMシディによって、また瞑想状態が変化してくることになる。
前回の話 意識全体が輝く…
という事で、慣れとは恐ろしいものでTMシディによる至福を体験しても、その状態が普通になってきたわけだ。
ちなみに、世の中には建前と本音がある。
分野としてはスピリチュアルなのでキラキラのいい話ばかりの方がウケはいいかもしれないが、読者さんに嘘はつきたくないので本当のことを書く。
浸透する純粋意識
また、瞑想には時間的な制約もあった。
TM瞑想は基本的に1回20分ほどで済むが、TMシディのプログラムだと50分近くかかる。
アサナや呼吸法まで含めると1時間強。
1日2回行うにはなかなか大変である。
数日や数週間ならともかく、これを何年も続けるのは仕事が忙しい社会人には難しい。
もちろん、それを上回るだけの収穫があればいいが、瞑想やフライングによって至福意識は感じられても慣れてしまって飽きてくる。
ただ、そうは言っても瞑想状態が変化してきた。
具体的に言葉では説明しにくりが、TMのマントラを唱える通常の瞑想時にシディで行うフライングの意識状態が混じってきたのだ。
普通にマントラを唱えるだけで、意識がフライングする時の時のようにエネルギーが注入される。
もっと言うと、瞑想状態に入らなくてもTMシディのフライングで味わう意識状態が混じってくる。
風船に空気が注入された時のように…
「パキッ」
となるわけだ。
であるから、普通瞑想すると眠る様なリラックスでくつろぐ状態になると思うが、逆に意識が覚醒して活性化する。
また、TM瞑想で言うところの「純粋意識」と言うのも肌感覚で理解出来るようになってきた。
こうなってくると、普通にしている時も「私」と言う感覚や認識が以前とは変化してくる。
欠けたピースとダメな自分
ただ、何かのピースが足りなかった。
それは瞑想中以外の体験。
自己の存在理由やこの世界の仕組みや存在理由。
これは文字や理論で理解するのではなく、ダイレクトに知覚し体でわかる状態を欲していた。
瞑想状態が深まり、頻繁に至福意識を体験しても。
自己の枠が崩れて拡張して認識が変わっても。
あいかわらずダメな自分がいるわけだ。
嫌な事を言われば腹も立つし。
様々な料金の支払いはしていかなくてはならない。
不条理な人間関係に巻き込まれ悩んだりもする。
「何が足りなのだろうか?」
「やはりこの世俗とは縁を切って出家でもしないと無理なのか?」
などとため息をつく日々。
出家至上主義
事実、仏教でもヴェーダの伝統でも一定以上の修練をする為には世俗を捨てて出家するというのが一般的である。
なぜなら、瞑想中のクリアな状態を高い状態で維持する為にはそれなりの環境が必要だからだ。
これはちなみにの話であるが、実際に瞑想修行を深めようと思ってタイへ瞑想しにいった男性に指導する僧侶が…
「ここから先は禁欲の戒律を守らないと行を授けられませんが禁欲を誓いますか?」
と言われ、奥さんに相談しないと自分一人では決められないと断ったそうだ。
私もヴィパッサナー瞑想をしているときに出家はしないのかと誘われたが、仕事やら家庭やらの事情でそう簡単に「はい、わかりました」とはならない。
ヴィパッサナー瞑想瞑想では表向きはあまり言わないが、本当のところは…
在家(社会で働きながら瞑想する私達)=徳を積んで来世に期待
出家(僧侶)=瞑想エリート
という図式である。
これは実際に聞いた話だが、東南アジアでは貧しい人々が何とかしてお布施した食べ物を青い目の僧侶が食い残して去っていくという現実がある。
隠匿
つまり、一般的に法を広めたり檀家さん(寺院の信徒でお布施や会費を払い寺院を経済的に支える人々)が欲しいので瞑想修行を一般解放しているが、その奥義は深く隠匿されている。
もちろん、入門編としてはマインドフルネスとかサティとかの技法は教えられているし、実際にある程度まではマスターすることが可能だろう。
もちろん、これらを否定するわけではない。
これによって安らぎを見出す人々も多いだろう。
しかし、こんな事を言うと嫌われそうだが本当のところ、これらは…
「マインドフルネスストレス低減法」
と認知学で呼ばれる類のもので、本格的なヴィパッサナー瞑想は全然違う。
安らぎどころか精神が崩壊するほどのショックを与えるものだからだ。
それを体得するには、家で瞑想したり年に通常は数回のリトリートでは足りない。
この辺の話は機会があったらまたしてみよう。
また、なぜ出家が必要かといえば色々な理由があるが、例えばの話。
もうクタクタ
もし、あなたがブラック企業に勤めていて、朝6時起きで仕事に行き終電近くまで残業する会社員だったとしよう。
もうクタクタ。
休みの日は疲れすぎて爆睡。
この場合、もちろん瞑想して様々なメリットを受ける事は出来る。
しかし、やはり出家して瞑想や祈りだけしている専門職の人より行のクオリティは落ちてくる。
また、ベンチャー企業の営業だった場合。
厳しい営業ノルマに追われ、胃がキリキリと痛む日々。
考えるのは売り上げのことばかり。
名簿屋から買ったリストに営業電話をかけまくり、何とかアポを取ってプレゼンの毎日。
月初にゼロになるノルマを呪いながら、達成出来そうもない数字を申請するミーティングでは上司から恫喝に近い叱咤を受け、成績が良ければ高待遇だが悪ければ人間以下の扱い。
このような仕事も瞑想とは相性が悪い。
なぜなら、日々考えたり接するものに意識はなりやすい。
神やブッダを日々思い瞑想すればそれに近くなり
日々金の事ばかり考えていればその波動に近くなる。
「やはり出家でもしないとこれ以上は無理なのか?」
そんなある日、転機が訪れる事になる。
続く…