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ヴィパッサナー瞑想のサマタ要素 野球でピッチャーの球が止まって見える王貞治元選手の例

前回の話の続きでヴィパッサナー瞑想を習いに目白へ行ったという話だった。

この時期にも色々なエピソードはあるが、全部紹介していると主題がブレてくるので

「悟り・覚醒には次の2つの要素が重要」という要素である・・・

A覚醒の強さ・インパクト

B成熟度

の流れでお話していこう。

サマタ力とは

前回はヴィパッサナー瞑想を習ったが、あまりピンとこなかったと言った。

それはヴィパッサナー瞑想自体がどうこうよりも、サマタ力が足りなかった為だという話だった。

では、どれくらいのサマタ力が必要なのだろうか?

色々な言い方が出来るが、ヴィパッサナー瞑想で言えば・・・・

「歩く瞑想が楽しくて楽しくて仕方がない状態」

になれば一番最初の段階はクリアしたとも言える。

「リアルさん、そのサマタなんとかというのをもう少し説明してください」

という要望もあると思うので、もう少しだけ深堀していこう。

前回はヴィパッサナー瞑想の要素として・・・

A サマタ

B サティ

の2つの要素があって、ボクシングに例えると・・・

A ウエイト(体重)

B 技術

みたいな感じという解説はしたと思う。

このサマタというのは実は瞑想修行をしなくても、日常的に私達は経験している。

速くすぎる時間

例えば映画。

映画館でもNetflixでもなんでもいいが、面白い映画やドラマの場合・・・

「あれっ もう終わっちゃたの? 時間が早かったね!」

となり、つまらないと・・・

「なげ〜な〜 まだかよ」

と時間が長く感じる。

簡単にいうとこのように時間が短く感じている状態が比較的サマタ、つまり集中力が強い状態

だから、専門用語というかテーラワーダの言葉で「サマタ」とかいうと、なんだか未知の感じがするが、その軽いバージョンは私達も日常で体験している状態。

発光

ではサマタの軽いバージョンではなく、もっとその力が高まってくるとどうなるか?

色々な状態があるし、多少の個人差はあるが光が見えてきたりする。

ヨガでいうチャクラ

仙道でいう丹光

ヴィパッサナー瞑想でいうとニミッタ

と呼んだりする。

この辺は文化背景や時代やメソッドによって呼び方も違うし、厳密に言えば見え方もバリエーションが色々あって一緒くたには出来ないのだが、ザックリといってしまえば同じとも言える。

もう一つサマタの力が高まってくると、より細かい動きや働きがわかってくる。

微細な領域が観察可能に

例えば歩く瞑想の足の動きも普通の時に比べてより繊細な感覚や動きが知覚出来るようになってくる。

厳密にいうと便宜上、サマタとサティをわけているがここは実は一体なので自動的にサティ、つまり気づきの力も爆上がりしてくるわけだ。

つまりサマタ力が高まってくると、瞑想修行は無論のこと何かの学習やスポーツなどでも全然変わってくる。

昔、巨人の王選手が・・・

「ボールが止まって見える」

という話は有名だが、ああいった一流の選手はサマタ力が高い。

だから、サマタが高まった状態の現象で「細かい動き」がわかるモードに入りボールが止まって縫い目が見えるような状態になったのだろう。

瞬間定 カニカサマディー

ヴィパッサナー瞑想的に言えば瞬間定というものがある。

これは1秒間に20回の気づき・認識が起こる状態の瞑想モードの事をいう。

カニカサマディーともいう。

このカニカサマディーの存在を知った時は・・・

「なんかカッコイイ感じだよね」

「高速でサティが入るから高速サティか」

とミーハー的な好奇心が湧いた。

このカニカサマディーを体験するにはかなりのサマタ力が必要。

歩く瞑想に退屈を感じてしまうレベルではノンノンという話になってくる。

「なんだ〜 それじゃー私は無理だわ」

とこれを読んだあなたは思ったかもしれない。

でも安心して欲しい。

実は瞬間定(カニカ・サマディー)は自覚出来ていないだけで、既に私達のデフォルトの状態だというのが私の見解だ。

デフォルト

「リアルさん、既に出来ているってどういう事ですか』

それを解き明かすには「思考」の正体を探る必要性がある。

前の記事で見るというテーマでお話したコーラの話を思い出して欲しい。

・コーラを認識するにはコーラを見る必要がある

・実はコーラを認識することにより私が存在出来る

という話を暗闇や感覚遮断の例でお話した。

その際に私達の思考もコーラと同列の対象物であるという話だった。

つまり・・・

「思考がなかったら今の形態の私は無い」

という話になってくる。

話になってくるというか、そういうモードに移行する。

この・・・

「今の形態の私は無い」

と表現したが、更に言えば・・

「今のこの形態の私は無いのだが、違う形態の私が顕在化する」

というモードになってくる。

本質的な我と思考する私

これをとりあえず「本質的な我」と呼んでおく。

話が若干、先走ってしまったが何を言いたいかというと、この本質的な我は普段自覚出来いが、代わりに思考しているモードの自分は私達が認識出来る自分なわけだ。

これをとりあえず「思考している私」と呼ぶことにしよう。

この思考している私は言語や想念によって成り立ている。

例えばだ。

「えーと、今日の予定はなんだっけな?」

「そうそう、駅前の無印でパンツを買って」

「地下の食料品売り場で鶏肉買って」

みたいに言葉を使って「思考」している。

ここであなたにお聞きしたい。

「この言葉を使って考えているというのは自然な状態ですか?」

どう思う?

「いや、リアルさん、普通ですよ」

「言葉を想い浮かべて考えるのは当たり前じゃ無いですか」

では聞くが動物はどうやっていると思う?

という話になってくる。

何を言いたいかというと、カニカ・サマディーで1秒間に20の気づきが起こるというのは言葉や文字として認識しているわけでは無いからだ。

では、どうやって認識しているのか?

これはサマタ力が高まってわかったのだが

続く・・・