忙しくて後で読みたい場合はLINEに登録してください(こちらをクリック)

山椒魚とダメ人間がみた光

前回はバガヴァッド・ギーターの講座をitのプログラムを受講している人に配布し始めたという話を書く予定だった。

前回の記事 バガヴァッド・ギーターと反抗する10代の頃

しかし、書いているうちに話が勝手に違う方向へ進んでいった。

厳密にいうと違う方向に進んだようにみえて、実はバガヴァッド・ギーターの話になっていくのだが、これは前もって考えてやっている事ではない。

なんというか、自動書記というと大げさだが話が降りてくると言ってもいい。

これは一部の小説家もそうらしく、登場人物が勝手に物語を展開し始める現象が起きるケースがあると聞いた事があるがそれに近い。

ということで、前回の話の続きから。

前回は・・・・

「ウケは悪かった」

という話までだった。

中学時代は特にグレていたわけでは無く、普通の生徒だったしあまり喋らなかったので大丈夫なハズだが、黙って座っているだけで国語の担任のS先生からは睨まれていた。

なんでだろう。

黙って座っているだけでキレられる事がちょくちょくあった。

こちらの「ナメている」意識が、いや実際にナメている気は無いのだが。

しかし、この状態は一変する。

というところが前回までのストーリーだった。

なぜ一変したのか?

それは国語の授業で課題が出た時だった。

「山椒魚」という井伏鱒二の代表作があるが、この小説の続きを書きなさいというお題が出た。

ちなみに山椒魚の物語はこのような感じ。

谷川の岩屋をねぐらにしていた山椒魚は、あるとき自分が岩屋の外に出られなくなっていることに気がつく。

二年の間岩屋で過ごしているうちに体が大きくなり、頭が出入り口に「コロップの栓」のようにつかえるようになってしまったのである。

ろくに動き回ることもできない狭い岩屋のなかで山椒魚は虚勢を張るが、外に出て行くための方途は何もない。

彼は出入り口から外の谷川を眺め、目高の群れが先頭の動きにあわせてよろめいているのを見て嘲笑し、渦に巻き込まれて沈んでいく白い花弁をみて「目がくらみそうだ」とつぶやく。

ある夜、岩屋のなかに小蝦がまぎれこみ、山椒魚の横っ腹にしがみつく。山椒魚を岩石と勘違いして卵をうみつけているらしい。

しきりに物思いにふけっているらしい小蝦の様子をみて山椒魚は、屈託したり物思いに耽ったりするやつは莫迦だと言う。

しかし山椒魚がふたたび出入り口に突進し、栓のようにはまり込んだりといった騒ぎをはじめると、はじめは狼狽していた小蝦も失笑する。

その後、山椒魚は外へ出ることを再度試みるが徒労に終わり、涙を流して神にむかって窮状を訴える。彼は岩屋の外で自由に動き回っている水すましや蛙の姿を感動の目で眺めるが、そうしたものからはむしろ目をそむけたほうがよいと考え目蓋を閉じる。

彼は自分が唯一自由にできる目蓋のなかの暗闇に没頭し、寒いほど独りぽっちだ、と言ってすすり泣く。

悲嘆にくれるあまり「悪党」となった山椒魚は、ある日、岩屋に飛び込んできた蛙を閉じ込め、外に出られないようにした。

蛙は安全な窪みのなかに逃げ込んで虚勢を張り、2匹の生物は激しい口論を始める。二匹のどちらも外に出られず、互いに反目しあったまま1年が過ぎ、2年が過ぎた。

蛙は岩屋内の杉苔が花粉を散らす光景を見て思わず深い嘆息を漏らし、それを聞きとめた山椒魚はもう降りてきてもいいと呼びかける。

しかし蛙は空腹で動けず、もう死ぬばかりになっていた。お前は今何を考えているようなのだろうか、と聞く山椒魚に対して蛙は、今でも別にお前のことを怒ってはいないんだ、と答える。

引用 ウィキペディア山椒魚(Wikipedia)

 

この物語の続きを書いて小説として完成させなさいというお題が国語の授業中出たわけだ。

「小説の続きか、どうしよう・・・」

と思ったが続きを書いているうちに勝手に筆が暴走し始めた。

なんというか、熱量というか内なる衝動に突き動かされて、気がつくと・・・

「はい、終了です」

という先生の声が聞こえても止まらない状態だった。

なんとか2分くらい時間オーバーして書き終えた。

今はその文章が残ってないというか、持ってないのが残念だがとにかく何かが憑依したように山椒魚の物語の続きを完成し、今まで感じた事が無い手応えというか満足感を感じた。

ちなみに、どのようなストーリーを書いたかというと要するに物語の筋としては山椒魚がカエルを岩屋に閉じ込めて、蛙をイジメたわけだ。

その後、和解する。

小説の文章でいうと・・・

蛙は岩屋内の杉苔が花粉を散らす光景を見て思わず深い嘆息を漏らし、それを聞きとめた山椒魚はもう降りてきてもいいと呼びかける。

しかし蛙は空腹で動けず、もう死ぬばかりになっていた。お前は今何を考えているようなのだろうか、と聞く山椒魚に対して蛙は、今でも別にお前のことを怒ってはいないんだ

と答える。

とここで山椒魚と蛙は和解というか、蛙が自分を何年も岩屋に閉じ込めた山椒魚に対して自分は怒ってないんだと一種の「赦し」を示す。

ここでどのようなストーリーや結末を予想するか?

 

ここで蛙が山椒魚にお前の事を怒ってないと赦し、それに対して山椒魚は蛙に懺悔する。

しかし、その言葉をかけた時には蛙からは返答がなかった。

つまり既に息絶えていた。

そこで山椒魚には様々な想いが過る。

「なぜ俺はこんな仕打ちを蛙にしてしまったのだろう?」

その自責の念にかられて、岩屋の入り口を塞いでいる石に突撃して自身の怒りを叩きつける。

何度か狂ったようにそれを繰り返すと、やがて入り口を塞いでいた岩が崩壊して視界を舞い散った土砂の砂が覆う。

土砂の砂や泥がやがて沈殿し視野が開けた時。

山椒魚は死んだように動かずに横たわっていた。

そう、死んだように・・・・・

 

実際にはもっと長くて詳しい描写にしたが、概要としてはこのような結末にした。

今思えば、現在は仕事で色々な文章を書いているが、この時の経験が最初の目覚めだったと感じる。

最初の目覚めというのは、なんというか自分の内圧と衝動とそれを叩きつける媒体とのハーモニーというか。

「ああ、俺はこれ出来るんだ」

という自覚と言ってもいい。

なぜなら、その後しばらくして、この課題の発表があった時に私の文章が学年での優秀賞になってプリントアウトして配布されたからだった。

あれだけアタリが辛かった国語の先生もこれを機に一気に柔和な態度になった。

まあ、田舎の中学の小さな内輪での事だから、自画自賛でここで語るほどの事でもないだろう。

しかし、当時、なにも取り柄がなく

自分が何かもわからずに

なにをしていいかもわからずに

誰からも認められずにいた10代のガキだった私には一つの光ではあった。

今書いているこの文書も、有料で開催している講座も基本的にはこういった・・・

・内圧

・言葉に出来ない衝動

・自分がやっているんだけれども、何かに突き動かされている感じ

・結果、自分の実力以上のものが出来あがる

という流れが起こっている。

例えばitの講座では参加した方にマザーのエネルギーを降ろしているのだが、人によっては初回参加でそのエネルギーに包まれ意識が変容していく。

これは私が場を設定してエネルギーを流しているという側面はある。

しかし、実際は「それ(神聖なバイブレーション)」のパイプというか導管になって、エネルギーの通り道として機能している感じだ。

だから、私の実力以上の事が展開していく。

こういった話は何も私の小さな成果を自慢したいわけではなく・・・

「あなたにも働いている力」

だという事を自覚して欲しいからだ。

これをバガヴァッド・ギーター的にいうと、神(パラアートマ)に委ねると言ってもいい。

これが出来た時、あなたの世界観というか認識が変わる。

この世界はこの世界でありつつも、まったく違った様相を呈する。

「リアルさん、そのパラアートマって怪しい響きの言葉はなんですか?」

と思うかもしれない。

パラアートマとは・・・・

続く