忙しくて後で読みたい場合はLINEに登録してください(こちらをクリック)

瞑想とヒーリングの関係 

瞑想とヒーリング

この前「なぜ瞑想するのか?」と言うテーマでお話した。

前回の話

なぜ瞑想するのか? 人は見たものに近くなる 暗闇リトリートや独房の意味

今日はその時に…

  • ヒーリングする為
  • 光を浴びる為

というところがあったが、それについてシェアしていこう。

瞑想とヒーリングは別のもの?

もしかしたら、これを読んでいるあなたは…

「瞑想とヒーリングは別のものでしょ?」

と思っているかも知れない。

まあ、瞑想やヒーリングと言っても様々な種類があるので、十把一絡げに全部まとめて言うことも出来ないが本質的には…

瞑想=ヒーリング

だと言える。

私も昔は瞑想とヒーリングは別のものだと思っていた。

なぜなら、瞑想はただ座っているだけだしヒーリングは受けてと送り手というか施術する側がいて、何らかの技法を用いて対処すると言うイメージがある。

例えば気功だったら、受けては座ったり横になっていて、施術側は手をかざすみたいなイメージが一般的だと思う。

これは気功だけでなく他のヒーリングでも技法や用語は違うが、大体同じような感じなのでは無いだろうか。

瞑想=自己ヒーリング

ところがある日…

「いやー瞑想ってヒーリングよりヒーリング効果ありますよね」

と言う話題になった。

まあ、それはそうだ。

瞑想は誰かに手をかざしてもらったり、マントラを唱えてもらったりはしない。

ただ、瞑想は自分で行う自己ヒーリングと言えなくもない。

なぜなら、ある一定の瞑想段階になった人はわかると思うが、瞑想していると…

  • 体が暖かくなる
  • 体がほぐれる
  • ある種の圧を感じる
  • 光を浴びたように周囲を明るく感じる

などの現象を体験したりするからだ。

特にある種の圧を感じたり目を瞑っていても光を浴びたように明るく感じる時がある。

これなんかは自己ヒーリングと言われれば…

「なるほど、確かにそうだな」

と実感しやすい。

瞑想中に感じる光や圧の正体

ちなみに、瞑想中に圧を感じたり光を感じたりするのはどのような技法をやっていても遭遇する。

例えばヴィパッサナー瞑想などの仏教系の瞑想をやっていても、一定の段階になってくると「軽安」とか「喜(ピーティー)」の状態になってくる。

これは心身ともに軽く自由になった感じがしたり、理由もないのに喜びが溢れてきたりする状態。

ではこれはヴィパッサナー瞑想をやっているからそうなるのかというと、必ずしもそうでは無い。

なぜなら、人間の身体や心というのは古今東西共通なので他の瞑想をしても似たような状態になる。

ヨガで言えば例えばTM瞑想などでも一定の段階になってくると、「軽安」とか「喜(ピーティー)」の状態と同じような現象が出てくる。

例えばTMで言えばシディテクニックというスートラを使うフライング・ホッピングなどはその典型的な例だとも言えるが、この状態になると普通に座っていたりマントラを唱えるだけでも圧や光を感じたりする。

このように厳密にいうと行っているメソッドや体系、技法によって若干の違いやプロセスの違いはあるが、ざっくり言ってしまうと同じ人類というカテゴリの人間がやることなので、どのような瞑想体系の技法を行っても似たような心身の状態にはなっていく。

ちなみに、もっと言えばこれは瞑想技法だけにとどまらない。

本来の意識に戻る兆候

例えばあなたはイマイチの体調だったとしよう。

しかし、仕事を始めて熱中して数時間経過すると不調だった心身が好調になっている経験とかあるだろう。

また、イマイチな体調の時に何か熱中出来るもの、例えば…

  • ドラマや映画
  • 読書
  • ゲーム
  • 運動

など自分が興味があったり好きだったものをやった後は心身ともにスッキリする場合があると思う。

例えばそれを行う前は…

  • ダルかったり
  • 眠かったり
  • 疲れていたり
  • 頭が少し痛かったり
  • 軽い風邪気味だったり

しても熱中しているうちにそれらのものが取れて快調になっていくケースが多い。

これなんかも従来的な「瞑想」という技法では無いが、心が集中する対象に向かっていった時に余計な雑念(心配事や考え事)から離れて、本来の自己のソースに接続したことによるヒーリング効果だとも言えなくも無い。

対象に依存しない幸福

こういう話をすると…

「リアルさん、だったら瞑想なんかしなくても自分の趣味やゲームなんかしてればいいじゃないですか?」

という質問もあるかもしれない。

まあ、確かにそうとも言える。

瞑想、特に仏教系のものは用語も概念も難解だし、厭世的なものが多いので下手にそう言ったものをやるよりは仕事や健全な趣味に没頭した方が人によってはいい場合もある。

ただしだ。

そうした場合…

「対象」

が必要になってくる。

例えばスポーツ観戦が好きな人の場合で説明すると巨人ファンの場合。

巨人が好きな人の場合は別に七面倒くさいスピリチュアル的なワークや瞑想をしなくても巨人が勝てば「幸せ」になる。

ただし、その場合は自分の幸福が他の対象に依存しているので、巨人が負ければその幸せは感じられないという話になってくる。

これは今は巨人ファンで説明しているので、対象は何でも同じ。

例えば特定のドラマを見て幸福を感じる人は、そのドラマが終わったら「ロス」状態になってつまらなくなる。

お酒が好きな人はそのお酒が無くなると幸せでなくなる。

まあ、世俗で生活している私達はこういった何らかの楽しみや好きな対象を持っているので、それを別に否定しているわけではないが、性質としてこの相対世界ではこのような仕組みだという話。

しかし、この対象に依存しない「幸福」というものが存在する。

続く…