忙しくて後で読みたい場合はLINEに登録してください(こちらをクリック)

フェルデンクライスとヴィパッサナー瞑想の歩く瞑想

前回は瞑想の微細な注意力を養うために瞼や眼球を使ったワークをシェアした。

あれでやったように、繊細な注意力さえあれば体の様々な部分を使って瞑想出来る。

前回の話

瞑想時の呼吸観察の方法 瞼と眼球を使ったトレーニング

今日はその続きから。

歩く瞑想は実は難しい

私もそれに気づく前はヴィパッサナー瞑想でよくやるように、呼吸時のお腹の膨らみ縮みや歩行禅などの足の感覚を重点的にやっていた。

もちろん、お腹の感覚や歩く瞑想で足の感覚を拾っていくのは素晴らしい方法である。

しかし、それにはかなりの集中力、ヴィパッサナー瞑想でいうところのサマタ力が必要とされる。

つまり、結構な上級者用の方法なわけだ。

なぜなら、多くの場合はお腹の観察を行なったり歩く瞑想で一生懸命歩いてもバキバキの状態にはならない。

座ってお腹の観察をする瞑想ならまだしも、特に歩く瞑想をしても…

「なんだか退屈だな」

「これで本当に瞑想なのかな」

で終わってしまう。

足より手や眼のほうが

なぜ歩く瞑想が難しいかというと、足は感覚が若干拾いにくいからだ。

実は足より手や眼などの部分の方が敏感。

これは箸を持つときに手では持てるけれども足では持てないのと一緒。

もちろん、構造的な違いがあるので一概には言えないが、足と手どちらを器用に扱えるかという話になってくるとやはり手だろう。

それだけ神経が通っているというか意識化しやすい。

眼も敏感

次に前回やったようなワークだが眼も敏感。

例えば足は多少砂を踏んでも大したことは無いが、目にゴミがちょっとでも入ったら痛くてしょうがない。

また、眼は心を表すみたいな諺があるように意識と直結している。

であるから、歩行禅のように歩く瞑想で足に意識を集中して瞑想するよりも、瞼や眼球を使った方が簡単だといえる。

フェルデンクライス

実はこの辺の身体操作に関してはフェルデンクライスやアレキサンダーテクニックと言われる身体技法が結構参考になる。

最初に言っておくが深さから言ったらヴィパッサナー瞑想の方がやはり高度というか、扱う領域が霊性に関わる分野なので圧倒的に深い。

しかし、導入として体を通じた集中力やリラックスをマスターする為に使うんだったら、フェルデンクライスなどは結構参考になる。

フェルデンクライスというのはモシェ・フェルデンクライスという人が開発した身体技法。

よく芸術系の人が取り入れている技法。

このフェルデンクライスに触れたのもヴィパッサナー瞑想をやっている時だった。

やはり瞑想熱心な人は探究心が豊かで、色々な技術に精通している場合があり…

「リアルさん、フェルデンクライスがいいですよ」

と薦められたからだ。

当時、実際に自分でやってみたり、フェルデンクライスの専門家のところで何度か施術を受けたりした。

その当時の感想としては…

「まあ、確かに歩く瞑想よりは感覚を拾いやすいけれども、それほどでも無いな」

というのが正直な感想だった。

しかし、ヴィパッサナー瞑想のリトリートで身体も意識も鋭敏な状態でフェルデンクライスのテクニックを行ったらびっくり。

身体に対しての認識が変わる衝撃だった。

ということで、呼吸の観察の方法から結構脱線したが、瞑想の集中力を高める方法として入口は色々あるという話だった。

恐ろしいくらいに

「リアルさん、歩く瞑想が出来ている目安みたいのはあるんですか?」

という質問もあるかもしれない。

とりあえずは歩く瞑想でも集中して出来ていればOKだが、本当の意味で歩く瞑想がハマった状態というのは最初は恐ろしくなるくらいバキバキになったり、歩いているだけで全身が至福に包まれる。

恐ろしくなるほどバキバキというのは、どんなものでもそうだが自分の限界を超えたり初めて遭遇する事態に対しては、喜びよりも恐怖が先にやってくる。

例えば以前話した体外離脱などもそう。

単純な話、自転車で時速40キロくらいしか出したことが無い人が400ccのバイクに乗って100キロ出したら楽しいより先にビビると思う。

それと一緒。

歩いているだけで至福

歩いているだけで至福というのは、これは一定以上のレベルで歩く瞑想が出来たら比較的いつでも出来るようになる。

なんというか、普通に歩くだけで至福感が全身に込み上げてくる状態になる。

私の場合は朝起きてゴミを出しとか、野良猫に餌をあげる時に外に出るときに大体なる。

これも以前お話ししたが、おそらく脳や身体の神経にそういう回路が出来ているので、自然とそうなる。

というか、私達のベースは喜びのエネルギーなので、余計な障害(心配や雑念や疲れ)がなければ、瞑想的なプラクティスを行えば比較的容易に感じられると思う。

ただし、漫然と行うのでなく繊細な注力を持ってトレーニングをしたらの話ではあるが。

ここで解説するのは限界があるが、簡単に言えば前回お話ししたような瞼や目の動きを微細な注意力を持って行う感じて歩行の時も行う練習がいい。

サマタは基礎

あんまりこういう細かい話をしても…

「リアルさん、そんな歩く瞑想とか呼吸の観察とか面倒でどうでもいいですよ」

と思うかもしれない。

まあ、気持ちもわからなくは無いが、この瞑想における集中力、俗にいうサマタ力は全てにおいても応用可能。

例えば、メンタル体を使ってエネルギーを取り入れたり変換させるような高度なワークもこういった集中力がなかったら期待したような効果も出てこないという話になってくる。

続く…