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勝浦の海と瞑想状態と胸筋ピクピク

いつもの夏がやって来た。

記憶というものは興味深いもので、視覚の他に触覚というか皮膚感覚でも触発されるものだ。

暴力的なまでの圧を感じる日差し。

身体にまとわりつくような熱気。

突き抜けるような空と入道雲。

これらを身体で感じると、過去に同じフィーリングを感じた時間に連れ戻されたりする。

 

10代後半から海に毎年行っていた。

地元が神奈川なので湘南も行ったが、特に千葉の勝浦が多かった。

 

正直な話、私は紫外線に弱いタイプなので海の日差しは苦手だ。

夏の海の日差しを半日でも浴びたら大変な事になる。

であるから、男らしくは無いがシャツとビーチパラソルは必須。

 

しかし、なんだろう。

最初に仲間と勝浦に行ったときはここは天国だと感じた。

海と空の青さが違う。

 

圧倒的な「夏」

 

今行ったらどう感じるか知らないが、当時の感性からするとそうだったのだろう。

おそらく、あの頃は仕事でも満たされず。

日々の葛藤で疲れ。

己がなにになるかもわからず。

そのくせ、内なる圧力はありあまり。

 

その吐口として、非日常としての夏と海がこの体と心に染みていったのだろう。

30代になり、仕事が忙しくなったり友人が結婚して疎遠になったりしていつしか海へは行かなくなった。

今では50代も半ばを超えて、あの夏の日々は追憶と・・・

みたいな感じ。

 

しかし、不思議なことにあの海の感覚は頻繁に体験している。

海の感覚とは瞑想中に感じるアレのことだ。

 

今から25年くらい前にコートニーブラウンの「コズミック・ヴォエージ―SRV・科学的遠隔透視による宇宙「謎の大探査」という本を読んだ。

本のタイトルにあるように著者はSRV、つまり遠隔透視の研究者でありかつ瞑想者。

TM瞑想(マントラ瞑想)のシディ・テクニックと遠隔透視について書かれた本である。

 

その本の中で、著者がTMシディを実習した時に・・・・

 

「まるで海の大波に持ってかれるような・・・」

 

というような描写がある。

 

最初に読んだ時は・・・・

 

「なんだ、大袈裟だな、誇張して書いてあるんじゃないか」

 

と思ったが、自分でそれを体験し始めると・・・

 

「ホンマや」

 

となった。

 

どうやって説明するとわかりやすかな。

通常、私たちはこの身体の中の「私」という感じがするだろう。

しかし、ある一定の瞑想状態になると、海としての「私」というのが知覚される。

 

ラマナ・マハルシの言葉だったと思うが、私たちは砂人形だという話。

砂で出来た人形なので、海に入ると溶けてなくなる。

それが深い瞑想状態だみたいな話がある。

よく・・・・

 

「私は悟った瞑想者だ」

 

みたいな表現があるが、厳密に言えばそこに「者」は居ないというのがわかる。

そうではなく、母体としての海が顕になってくる。

 

その海は先ほどの・・・

 

波として

 

広大さとして

 

光として

 

あるいは認識が進むと神、至高なる「それ」として顕になる。

 

多くの場合、最初はそれを体験してもわからない場合が多いが、次第にハッキリと認識されていく。

 

 

まあ、言ったら、それを自覚しようが無自覚だろうが、私達は誰一人例外なく「それ」から出来ている。

特殊な至高体験や深い瞑想体験が無くとも、「それ」で在る事には変わりない。

だから、別に焦る事も無いわけだ。

単に意識化ができないだけ。

 

意識化出来ていないだけで、すでに「それ」と一体化している。

 

「リアルさん、意識化出来る出来ないってどういうことですか?」

 

という質問もあるかもしれない。

すっごくシンプルにいうと、胸筋ピクピクだ。

 

胸筋ピクピクとはよくテレビなんかで筋肉を鍛えた人が胸の筋肉をピクピクさせているのを一度は観たことがあるかもしれない。

あれは多少なりとも筋トレした人は自然と出来ると思うが、神経が繋がるわけだ。

マインドマッスルコネクションと言って、意識した対象の筋肉との神経がつながってピクピク動かせるようになる。

厳密にいうと、胸の筋肉をピクピク動かせない人も神経は繋がっているのだが、意識化出来ないので自由に動かせないという話になってくる。

 

瞑想や神聖な意識の発露もこれと似ている。

既に「在る」のだけれど、意識化が出来ていないから在るのか無いのか「わからない」。

わからないけれども、別にそれが無いわけでは無い。

自覚出来ていないだけ。

 

古今東西の瞑想テクニックやスピリチュアルな教えというのは、ある意味「それ」を「意識化」する訓練とも言えるわけだ。

で、ある程度、自覚というか意識化出来ると・・・

「ホンマや」

となってくる。