前回の話は瞑想の集中力であるサマタが足りないので、私達はこの思考や身体の拘束を解除出来ないという話だった。
前回のお話
ジョン・C・リリーのサマディータンクと瞑想と映画の関係
では一体どうしたらいいのだろうか?
結論から言ってしまえば、ある種の恩寵にたよるという話になってくる。
ある種の恩寵とはやっている修行の体系にもよる。
例えばヴィパッサナー瞑想などをやっていればブッダやその他のもの。
ヨガをやっていれば神々、例えばシヴァ、ブラフマー、ヴィシュヌなどの神々。
キリスト教ならイエスや天使などの。
日本でいえば神道の神々など。
このようにある種の恩寵、神に頼るという話をすると…
「リアルさん、何言ってるんですか、自力じゃないと意味ないです」
「瞑想は科学なのでシステマチックにやればそんなの必要ないです」
という話もあるかもしれない。
まあ、気持ちもわからなくはない。
私も昔だったら恩寵をあてにするみたいな話を聞いたら、意味がわからないか不快感を覚えたかもしれない。
しかし、色々な話を聞いたり自分なりの体験をしていくと、この自分の上位の存在やその力無しにはサマタの壁を破って一定の認識に達するのは無理なんじゃないかと思う。
自力でコツコツとやっていくのと、上位のサポートがあるのとでは全然話が違ってくる。
乗り物に例えると、自力が自転車だとすると上位のサポートはバイクだ。
しかもバイクによっては400ccの中型バイクだったり、もっと大排気量のリッターバイクだったりする。
だから同じ2輪車というカテゴリではあるが、乗り物としては自転車とは全くの別物くらいのスピードが違うという話になってくる。
ビジネスだって同じだと思う。
同じ才能や能力の山田一人さんと田中角栄郎さんがいるとする。
性格や考え方も大体一緒だと仮定する。
その2人が会社を辞めて自分でビジネスを始めたとしよう。
一人で頑張る山田一人さんはコツコツと一日15時間、身を粉にして働く。
一方、田中角栄郎さんはお爺ちゃんが元総理で家族や親類関係も地域や企業に絶大な影響力がある。
ことによったら犯罪を犯してもコネの力で無罪になってマスコミでも表にならないようなパワーがあったとする。
もちろん、土地やお金も充分あるので、まともなビジネスだったら家で資金を準備してくれる。
一人の力で頑張る山田一人さんと、絶大なコネや資金量がある田中角栄郎さんでは、能力が一緒だったらどちらが有利だろうか?
最終的な結果はわからないが、有利かどうかで言えばこれはもちろん、資金も人的リソースも充分にある田中さんだろう。
瞑想もこれと一緒。
自分より上位の存在のサポート、一言で言えば神の恩寵を受けられるかどうかというのは上記の山田一人さんと田中角栄郎さん以上に違ってくる。
余談だが、神の恩寵という話で言えば、この世界に存在する全てのものがその恩寵を受けている。
それは人間も一緒で、どんな人間であろうとその恩寵は受けている。
なぜなら、こうやってこの世界に「存在」しているということが恩寵そのもだからだ。
ここの部分を説明すると、話が濃くなってしまうし1時間以上かかるので、ここではカットするが、とにかく私達に自覚がある無しに関わらず、既に上位の存在からのサポートは受けている。
しかしながら、その恩寵にも「濃い・薄い」というのがあるわけだ。
例えばあなたは会社の課長で部下が5人いたとする。
会社の方針としては5人全員をサポートするように言われているし、自分でもそうしようと思うだろう。
しかし、その5人の中でも…
「何だこいつ、遅刻ばかりだし報告も無いし、やること全然やってないでサボってばかりいるし、おまけに生意気で俺のこと全然信じていないな」
という部下と…
「ああ、こいつなら俺の代わりにどんどん仕事を任せられるな」
みたいな出来る部下や
「こいつは失敗もするけど、相談もこまめにしてくるし、盆暮れの付け届けも贈ってくるから可愛い奴だな」
みたいな、可愛げのある部下など、性格や仕事ぶりによって注ぐ愛情というかサポートの濃淡は出てくるはずだ。
これと同じで、私たちより上位の存在も恩寵としては全ての人に注いでいるが、そこに濃淡が出てくる。
瞑想、特に悟りや覚醒という部分になってくると、この上位の存在からのサポートは必須だという話になってくる。
例えば…
続く…