覚醒と悟りの話の続き
前回は成熟度が問われるという話だった。
いくらピーク体験、俗に言う一瞥を体験しようが、それが醒めて現実に戻り不満タラタラの場合はちょと違うよねという話。
これは自分の体験を振り返ってもそう言える。
10代の頃から神秘体験は結構起こった。
体外離脱系の体験を抜かしてもチョクチョクあった。
しかし、一瞥や至福的な神秘体験をしてもそれだけでは片手落ちだ。
例えば高校生の頃。
当時は自己観察というのがテーマだった。
故仁宮武夫氏の自観法とそれに付随する一連の行をしていた。
しばらくすると夢見が変化してきた。
夜の睡眠中にこの現実世界と変わらないくらいのリアリティのある世界へ行く。
紺碧の空と緑の丘があり、葉っぱの一枚一枚が輝いている。
輝いているというのは比喩ではなく、オーラのようなものが葉っぱの輪郭から出ている。
「天国なのだろうか?」
睡眠から醒めても高揚感とエネルギーが持続していた。
また、高校の校舎から外を眺めている時、突然至福感に満たされる。
校内に止めてある自転車の金属の輝きが浮き出て見えて、涙が出てくるほどの圧倒的な何かがやってきた。
思えばこの頃から自然と神に祈り始めていた。
特定の宗教に入っていたわけでは無いが・・・
「私をこの世界に送り出した神がいるのだったら、この世界での面倒も見てくれるハズだ」
と妙な確信があった。
また、青年期というのは色々な悩みがある。
そのような時は全てを神に委ねる。
委ねると100が0にはならないが、50くらいの半分にはなる。
そうすると劇的な環境の変化があり、現状が変化する事が何度かあった。
少し話が逸れたが、神秘体験や小さな認識の転換は起こるが、この社会で生きていく諸問題というのはやってくる。
また、30代になると認識が一変するような瞑想状態や至高体験をすることになるが、それをしたからといって人生の諸問題がオートマチックに解決するわけでは無い。
当時は既に自営業だったので、売上を上げたり車検や保険を払ったり日々の仕事をこなしていかなければならない。
それだけならまだしも、時には人から誤解されたり批判されたり、ゴミのように扱われたりするわけだ。
そうすると・・・
「俺、悟ったハズなんだけど、なんだか想像してたのと違う」
みたいなギャップに悩む。
これが先にお話したAの覚醒状態はある程度体験・認識したがBの成熟度が足りない例だ。
いくら瞑想が深くなっても、至高体験をしても、この社会で生きている限りは成熟度が足りなと逆に苦しくなるパターン。
では成熟度とはどれくらい必要なのか?
これは人それぞれというか、カルマによって変化していく。
この辺は個人差が激しいので一定のパターンとしては説明しにくい。
一つの比喩として山登りを例に解説してみよう。
あなたは登山が好きだとする。
どれくらいの山に登れば満足か?
その辺は人によって違うだろう。
「私は高尾山にたまに登ればいいわ、ケーブルカーも使ってね!」
と軽いトレッキング程度で大満足する人も多いハズ。
そうではなくて・・・
「私は富士山に登りたい!」
という人もいるだろう。
究極的には・・・・
「エベレスト無酸素で!」
みたいな人も稀にいる。
このようにどのくらいの山に登りたいか?
興味があるのか?
実際に実行するのか?
というのは本当に人それぞれ。
精神世界も、今話題にしている成熟度もそれに似ている。
目安としては覚醒度合いと成熟度合いが拮抗しているのが、ある意味理想的なパターンだと私個人は思っている。
再び山に例えると、高尾山にしか登れない体力とスキルの人はエベレストには登れないわけだ。
それなりの覚悟はもちろん、スキルや装備、資金、人脈がないと無理。
成熟度。
エベレストの山頂に立って、バキバキの景色を眺める事が覚醒意識だとすると、その成熟度が必要だという話。
これはエベレストに登らなければいけないという話では無い。
抽象的な表現になってしまうが、成熟度とは・・・
「納得感」
「満足感」
とも言える。
近所の公園の丘に登って、シートを広げてお弁当を食べて大満足というケースだってあるわけだ。
近所の丘に登れば満足=覚醒度
近所の丘に登れるスキル=成熟度
2つのバランスが釣り合った場合、それはそれで素晴らしい体験だし本人だって大満足なわけだ。
覚醒・悟りにおいてはこの近所の丘タイプの場合もあるし、それで充分なケースだってあるだろう。
この辺が劇的な体験をして悟るパターンとひっそりと悟るパターンの違いとも言える。
前者がお釈迦様だとすると後者が村にいる長老みたいなイメージ。
どちらのタイプにおいても納得感や満足感が伴う。
これはどちらも同じと言っているわけでは無い。
当然、色々な差はある。
近所の丘にだけ登れる人とエベレストに登れる人に色々な差があるのと一緒。
例えば近所の丘にしか登れない人に富士山やエベレストに登りたいと相談してもわからないわけだ。
納得感や満足感の話に戻ると、どんなに素晴らしい体験をしようが、意識状態に一時的になろうが、今の人生やこの世界に納得感や満足感が無ければ、それはまだどこか未完成だとも言える。
消化すべきカルマやお仕事が残っているわけだ。
次に覚醒意識のグラデーションについてみてみよう。
私が最初にこの覚醒意識に触れたのは、
(厳密に言えば触れるも何も、私達はこの覚醒意識と隔たっているわけでは無いのだが、文章的に触れたとしておく)
続く・・・・