最近はよくインド占星術の鑑定に同席する。
そこでいつも思うのが人生のプログラムについて。
やっぱり人それぞれ人生があるが、その人のテーマは生まれながらに組み込まれているというのが如実に顕れていたりする。
悟りとか覚醒という話にしても、人生のプログラムを理解して課題に取り組んでいくとかなりの部分がクリアになるとも言える。
結論から言えば、座って深い瞑想状態になったり特殊な意識状態にならなくとも、この人生のテーマの理解が進んで消化・昇華が進んでくるとかなりクリアになってくるとも言える。
画質と物語
前回、悟りとか覚醒や神という言葉は言葉だけでは伝わらないという話をしたが、この辺の例えをわかりやすくいうと…
「画質と物語」
だとも言える。
画質と物語というのは、例えばあなたが映画館でもAmazonプライムでもネットフリックスでもなんでもいいが、映画やドラマを観る時に…
- 画面(スクリーン)
- 映画の内容(物語)
という2つの要素があるわけだ。
当たり前の話だが映画を観るにはスクリーンや画面が必要で、逆にスクリーンがあっても映し出すものがないと意味がなくなってしまう。
この辺の構造が悟りや覚醒、神の存在に類似しているという話。
まず最初に画面についてみてみよう。
画質のクォリティーと意識状態
最近はPCでもテレビでもディスプレイの進化が進んでいる。
PCだったら最近のノートパソコンはOLEDとかMiniLEDとかになってきて、かなり綺麗な画質になっている。
昔だったら液晶というだけでハイスペックだったのに、今では信じられない程画像が美しくなっている。
やっぱり同じ映画や動画を観るのなら綺麗な画像で観たい。
これをスピリチュアル的にいうと…
画面のクォリティ=瞑想状態
と例えるとしよう。
世界が輝く時
ある程度瞑想の経験がある人はわかると思うが、深い瞑想状態になったりそれによって意識がクリアになると、今、視えている世界がクリアに感じられたりする。
ごく普通の風景が美しく視えたり、まるで光っているように視えたり。
また、自分の存在が希薄になり周りの世界に溶け出して一体感を感じたり。
または神聖な存在を感じたり。
そのエネルギーに満たされてこの世界の美しを感じたり。
などなど、ある意味、瞑想や祈りによってこの世界の本来の姿=高画質が実感出来るわけだ。
今まで色彩を欠いていた世界が4Kの鮮やかな輝きに変貌するようなイメージ。
これらはこれらでとても素晴らしい状態ではある。
しかし、実はこれだけでは片手落ちだという話になってくる。
物語性=意味
なぜなら、これらは画質的な精度はMiniLED並みにアップしているが、実は映像が緻密になって本来の見え方になっただけで、肝心の物語にフォーカスしていないからだ。
では物語とは何か?
それは色々な言い方が出来るが、一言で言えば…
「意味」
である。
映画でもドラマでも大抵はなんらかのメッセージ性を持っている。
例えば少し前に話題に出た映画「コンスタンティン」だったら…
「自己犠牲による昇華」
みたいなものがテーマだし、又吉の火花のドラマをこの前見たが…
「20代の頃に死に物狂いでやるけれども、結果が伴っていかないもどかしさや人間関係の機微」
みたいのが物語のテーマやメッセージ性ということで織り込まれている。
もちろん、意味が無いような前衛的な作品とかもあるだろうが、それだって実験的試みや野心的なものという意味は存在するわけだ。
存在=意味
全く意味が無いものは映画にしろドラマにしろ、そもそも存在しないという話になってくる。
その「意味」を知ったり感じたり、洞察することによって物語の存在が成立するわけだ。
でだ、この物語性というのは必ずしも画質に左右されない。
画質に左右されない物語性
もちろん、映画だったらIMAXで迫力ある大画面で観た方がいいだろうし、MiniLEDみたいな綺麗な発色のディスプレーで鑑賞した方が満足度は高いだろう。
しかし、良質な作品だったらそんなに画面によって感動は左右されないという性質も持つ。
極端に言えば30年くらい前の映像でも充分に感動するし、もっと言えば小説という形式、つまりディスプレイがなくても物語がイメージ出来れば成立してしまう。
これをスピリチュアル風にいうと、必ずしも瞑想的な意識状態でなくてもいいという話になってくる。
もちろん、画面が高画質であればあるほどクッキリと観えるように、ある種の意識状態だと私たちの人間としての体験もある種の別次元の感覚で感じ取れる。
ただ、ではそれは必ずしも絶対に必要かというと、実は物語の方が重要だったりするわけだ。
人生の意味が解ける時
極論を言えば、人生で一度も瞑想をしたことが無い人でも、ある程度の年齢になって自分の人生を振り返った時にその意味を深いレベルで洞察することが出来た時。
「ああ、私の人生はこれでよかったんだ」
と例え平凡な人生であっても心の底から実感出来た時。
ある種の完璧さを実感出来た時。
また、その人生をプログラムした自分の意志や人間のはかりごとを超えた「それ」の存在を身体で実感出来た時。
それはある意味、意識の本来の自在性を瞑想的には実感してはいないが、物語性として「意味」として実感したならば、その人にとっては少なくともこの人生ではそれは完結するとも言える。
未消化のケース
ここで勘違いしやすいポイントがある。
これは悪い意味での諦めとかではないので…
- 怒り
- 納得感の無さや不満感
- 無気力感ややるせなさ
などはほぼ感じずにある種の完成感というか、物語の完璧性や美しさや偉大さを感じるのが一つの目安となる。
逆に言えば上記のような納得いかない感が出てしまっている時は、まだ自分の物語としてのテーマで未消化だったりする部分や意味を読み取れてない部分があるよって話になってくる。
では、どうやって具体的に意味を探っていくのか?
続く…