今日は Kindle本「覚醒への旅」について。
そもそも、どうしてこの本を書いたかと言うと…
「覚醒や悟りというものがわかりにくい」
ということが挙げられる。
なぜわかりにくいかというと、色々な概念や体験があり一貫性が無いからだ。
もっと言うと、一貫性が無いどころか悟りという考え方が無いものもある。
例えばキリスト教。
キリスト教では仏教や禅のように悟りを開くという考え方は無い。
その代わりに原罪からの解放とか天国に生まれ変わって神と共にいるとか、キリスト教の宗派によっても微妙に違うが、とにかく仏教やヨガとは違ってくる。
では、生まれた場所や時期、属する集団によって違う価値観(悟り・救済)程度のものに絶対的な価値はあるのか?
例えば…
「ヨガや仏教やキリスト教を知らない、南の島に生まれた人々には生まれた意味や価値は無いのか?」
という話になってくる。
これを特定の教えに属する人に聞くと…
「そう言った教えに触れることが出来ない人は徳が無いのです」
みたいな話になってくる。
徳というのは一般的には人徳というような使い方をする。
「あの人は人徳があるから上手くいく」
みたいな。
仏教的な瞑想の場合、徳というのは意味合いが少し違ってポイントカードのポイントみたいなイメージ。
ポイント(徳)が無い人、少ない人=修行が進まない
ポイント(徳)が高い人=修行が進む、悟る
みたいな使い方をする。
だから、あの人は徳が無いからという場合は今生や前世で修行が足りなかったり、良い行いが足りないみたいなニュアンスになる。
確かに、そういった原理というか側面はあるだが、果たしてそうだろうか?
もちろん、特定の教えやメソッドを知ったり身につけるという意味で言えば、縁や徳が無いという捉え方も出来なくはない。
しかし、わたしたちが求めるもの。
絶対的と言える存在は果たしてその程度のものなのだろうか?
今、思い出したのだが日本にキリスト教が広まらなかった理由という文を読んだことがある。
ご存じのようにキリスト教は欧米はもちろん、東南アジアやその他でも絶大な普及率を誇る。
しかし、意外と日本人でキリスト教の方もいると思うが、他の国と比較すると普及していない。
それには諸説あるが、日本人の庶民の知的レベルが比較的高くて布教しにきた外国人の神父たちが説得出来なかったらしい。
一例を挙げると、キリストによって全ての民は救われるという話をすると、普通の農民でも…
「それではキリスト様が生まれる前にいたオラのご先祖様達は救われないということですか?」
みたいな疑問をぶつけると、神父や牧師達はキリスト教の布教を諦めてしまったそうだ。
このように生まれた場所や時代、文化や集団によって接することが出来なくなってしまう程度のものに絶対的な価値があるのだろうか?
否である。
神、もしくは絶対的とされるものであるならば、特定の名前や名称をつけるかどうかはともかく、既に私達と共にあるハズである。
また、それが顕在化していたり開花しているかはともかく、既に潜在的に持っているものである。
そういった思いがあり、この「覚醒への旅」という本を書いたわけだ。
この本では…
・覚醒意識
・成熟度
という2つの側面について触れた。
詳しくは本書を読んで欲しいのだが、少しだけ覚醒意識について触れていく。
私自身、この部分についてはかなり試行錯誤した。
なぜなら、覚醒や悟ったと言われる人の本を読んだり、本人に会って話を聞いたりしても人によって言っていることがバラバラ。
もちろん、仏教なのかヨガなのか、もしくは違う修行体系なのかで表現方法や多少の違いはあるだろうが、本人の体験談もバラバラ。
なぜこのようなことが起こるのだろうか?
続く