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成田悠輔氏の困ったら死ねばいい発言の危うさと真のリアリスト

前回は死後の世界を信じる国ランキングという事で日本の順位は下から2番目だという話だった。

また、死んだらお終いという考え方はある種の危険性を帯びているという話だった。

抜粋

もちろん、何を信じるか信じないかはその人の自由だ。
ただ、あまりに唯物主義というか虚無主義的な考え方だと、どうなんだろうと思う。

例えば、発言力があるホリエモンなどは無神論者だし、最近話題の成田悠輔さん。

あの変なメガネをかけてYouTubeにもよく取り上げられている。

成田さんは東大を主席で卒業してイエール大学の助教授をつとめているエリート。

彼の発言は少ししか聞いていないがユニークで面白い。

ただ、気になるところがあり…

「困ったら死ねばいい」

と言っているところ。

これはお金が無くなったらどうしたらいいかの対談をしている時に出てきた言葉だが、この言葉はちょと問題である。

なぜなら、どれほど知能レベルが高くて博識でも、基本的なベクトルが違ってくるととんでも無いことになる。

私もこういった仕事をしているので「◯にたい」と相談される事がたまにある。

死後の世界を信じる国ランキングと唯物論の日本

 

ということで、今日はこの辺のところを深掘りしていこう。

それがプラスに働くならば

 

ちなみに、前回話に出てきた成田悠輔さんの発言。

「困ったら死ねばいい」

まあ、これもそう考えてその人の人生にプラスになれば、そういう考え方を取り入れるのもアリかもしれない。

なぜなら、死の恐怖は私達にとって一番強いものなので、それを他人や組織に利用されコントロールされてきたというのがある意味、今までの歴史とも言えなくもない。

 

であるから死の覚悟というか、腹が座っていれば…

「この壺を買っておけば病気が治りますよ」

「このご祈祷を受ければ命が助かりますよ」

「◯◯様にお布施をすれば一生安泰ですよ」

みたいに恐怖を煽られてゴリ押しされて変な方向へ誘導されることはないわけだ。

 

そういう風な昔の武士のように腹が座る方向で死というものを捉えられれば、死んでもいいみたいな考え方も有効かもしれない。

ただ、多くの場合は違う。

刹那主義、虚無主義になるだけだ。

 

また、色々な考え方はあってもいいと思う。

絶対的に神や死後の世界を信じなさいみたいな事は言わない。

死んだら終わり

だから、困ったら死ねばいい

みたいに考えたかったらその人の自由である。

しかし、テレビに出たりする有名人が気軽に発言する内容では無い。

どれだけの人が見て、どれほど影響力があるかを自覚しなければならない。

やはりどれだけお金があっても、知的なエリートでも家柄が良くてもベースに愛がないと危険な方向に行きかねない。

ゲームのルール

 

私達の人生はゲームに例えるとしよう。

例えばオセロ。

自分が有利な時でも不利な時でも何とか戦っていくわけだ。

しかし、「死んでしまえばいい」という論法だと、そのゲームの盤をひっくり返して終わりにしてもいいという話と一緒になる。

やはりゲームにはゲームの法則や決まりがあり、そのゲームが終わるまではやり続ける事がゲームとして成立するわけだ。

しかし、オセロであれ将棋であれ

テニスであれ

野球であれ

「途中で放り投げてしまってもいい」

なんて事をしたら、出入り禁止になったりペナルティをくらうだろう。

人生だってこれと同じ。

もっとも…

 

不治の病で苦しくてどうしても死にたいとか

戦時中のように自分の命を犠牲にしたら仲間が助かる

とかの例外はあるかもしれない。

 

しかし、それ以外はどんなに不利な条件(カルマ)だとしても、その与えられた条件の中で足掻いていくしかない。

 

カルマ解消

 

病気を持っていても

貧乏でも

性格や癖があって苦労しても

人との出会いに恵まれなくても

嫌な人間(家庭、親戚、職場)と関わりがあっても

 

こう言った普通は「嫌だな」と思うカルマは多かれ少なかれ誰でも持っている。

なぜなら、本当のスピリチュアル的な意味で言えば、こう言ったカルマ解消の為に生まれてきているという理由も大きいからだ。

逆に言えば、そう言った苦痛や嫌な体験をするからこそ、カルマが解消されて軽くなると言える。

であるから、ヴェーダの伝統でも一定以上瞑想修行が進んだ人達は何か苦痛が起こっても、それによってカルマが解消されているとみて喜び神へ感謝するという。

 

命の相談

 

私もこういう仕事をしているので、時折…

 

「死のう思う」

 

という相談を受ける事がたまにある。

やっぱり精神的にも肉体的にもこの世界で生きていくのは大変な側面がある。

であるから、そう思う事自体はある意味致し方ないとは感じる。

しかし、そう言った際に私は言う。

「もし、死後の世界や来世があったらどうすんの?」

「あっちの世界に帰った時に『あなたはまたやってしまったのですか、あの誓いはどうしたのですか?』みたいにネチネチ指導されて死ななければよかったと思うかもしれないんだよ?」

「また生まれ変わったら、今よりハードな境遇に生まれてまた再チャレンジするらしいよ」

相談者

「でも、死んだら終わりじゃ無いですか」

だろう運転からかもしれない運転へ


「だろう運転って知ってる? 危険な運転の事だけど」

 

「車を運転するよね? 例えば道路に出る時に車が来るかもしれないと思って安全確認するよね?

 

だろう運転っていうのは、車はこないだろう、人は渡らないだろうって安全確認を軽視してやらない運転なんだよ、だから事故るんだよ」

 

「死後の世界だって一緒だよ、死んでも終わりだろう、来世なんて無いだろうっていうのは車はこないだろうと一緒だと思わない? 魂の事故になるかもよ?」

 

「あるかもしれないって思わない?」

 

「車と一緒で無いだろう運転から、あるかもしれない運転にした方が安全だと思わない?」

と返す。

本当のリアリストというのは科学的だとかエビデンスがどうとかではなく、科学的では解明されていない未知の知識や技術でも現実的に運用可能なら、その可能性を受け入れられるかだ。