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自我の終焉とダグラスハーディングとバレエ

自我の終焉

クリシュナムルティの話が前回出たので今日はその続き。

前回のクリシュナムルティの話はこちら

20代の頃はクリシュナムルティの本などをよく読んでいた。

「自我の終焉」

という本。

もともと理屈っぽい性格だったので、あとはトランスパーソナルのケン・ウィルバーなども読んでいた。

なんなんだろうな。

ああゆう本を読むと自分の精神性が高くなったような気になってくる。

別に読んで内容が理解出来た訳ではないが、なんというか雰囲気?

本や文章から醸し出される一種独特のものに憧れていたのだろう。

あと、知的コンプレックスというか、昔貧乏だった人が高級車に憧れるように、そういった本を読んでいる自分って知的かもみたいな意識もあったかもしれない。

前回は団体も弟子も持たないというクリシュナムルティの方針について触れた。

それによるメリット。

やはり教える側にせよ団体にせよ、人が集まるところにはマーヤが渦巻くのでなるべくフラット化を目指したのだろうという話だった。

しかしである。

逆にそのデメリットも存在する。

クリシュナムルティ方式のデメリット

クリシュナムルティは晩年に・・・・

「私の教えを理解したものは一人もいなかった」

と言ったとされている。

もちろん、彼の言葉に触発されて色々な学びはあった人も多いだろう。

しかし、クリシュナムルティの後継者というか、同じようなレベルで理解や認識をした人っていたのだろうか?

もしかしたら、一般的に有名でなかったり人知れず「わかった」人はいたかも知れないが、少なくもと聞いた事は無い。

つまりだ、組織化もメソッドも何も無いから自由な代わりに、教えの効果というか有効性もどうなんだろうというところがあるのは否めない。

なぜなら、私の知っているケースで言えばクリシュナムルティやアドヴァイタの教えを知識として一生懸命学んでも手応えがなかった人が、ヴィパッサナー瞑想のリトリートに入ったらガツンと体感したという話は聞く。

ダグラス・ハーディング

あと、クリシュナムルティでは無いがダグラス・ハーディングもそうだ。

「心眼を得る」などの著書で有名なダグラス・ハーディングも・・・

「観ている気づきとしての自己」

にフォーカスしている。

この辺の話題というか問題は色々とあるので、なるべく簡潔に書くようにするが、私も20代の頃にこの本を読んだ時は・・・

「ムムッ」

という感じだった。

なぜなら、この頃の自分のテーマが「気づき」であり・・・・

「気づく事が悟りである」

という話を色々なところで読んだり聞いたりしていた時期だった。

ちなみに、ダグラスハーディングの観る技法としては自分を指差すワークがある。

実験

これを読んでいるあなたも今ちょっとやってみて欲しい。

ステップ1

右手を前に持ってくる

ステップ2

人差し指で目の前にあるものを指す

例えば机があったら机を指で指し示す

ステップ3

今度は自分の足を指で指す

ステップ4

指で指した対象を観察している時に・・・

観察している「対象」から「離れて」存在して観察していることに気づく

ステップ5

次に自分の鼻のあたりを指で指す

ステップ6

指で自分を指し示した時に、あなたは「何」を観ているのか?

これを理屈ではなくて感覚で感じる

何が観ているのか?

大体このような感じでダグラスハーディングの技法としては・・・

「何が観て(気づいて)いるのか」

にフォーカスする。

一見、なんでも無いような実験だが、気づきのセンスのある人は・・・

「ムムッ」

となる場合がある。

この気づいている主体。

まあ、厳密に言えば主体とも言えないのだが、とにかく「これ」

名もなく

場所もなく

個性もなく

ただただ存在して

様々な対象を認識して

存在を存在たらしめている

「それ」

の存在に気づき始めた時に・・・・

「何かある」

という言葉に出来ない衝撃を受ける。

「ああ、クリシュナムルティが言っていたのはこれか・・」

という風になる場合もあるだろう。

予感ともどかしさ

しかしである。

そうとはいえ、何かあるという予感はあるが、足の裏が痒いときに靴を履いた状態で痒いところを掻くようなもどかしさがあるんじゃ無いかな?

「ああ、これは何かある」

「でも、この気づきが悟り・覚醒なのか?」

「いや、そうじゃないだろう」

みたいな葛藤。

まあ、この辺は多少センスがあっても余程の幸運や恩寵が無いと・・・

「わかったような、わからないようなもどかしい感じ」

で大抵は止まってしまう。

クリシュナムルティやアドヴァイタなどの教えが人気があるのも、大体こういう心理というか状態が構造としてある。

基礎と体作り

では、何が足りないのか?

それはメソッドでありキチンとした訓練体系である。

基礎と体作りとも言える。

例えてみれば、どんなに運動神経や音感が良くても、バレエの訓練を受けなければバレエダンサーになれないのと一緒である。

では瞑想における訓練や基本とは何か?

これも国や文化体系によってバリエーションがあるが、ヨガにしろ仏教にしろその他のメソッドにしろ、数千年の歴史がある技法はやはり侮れない。

正しい手法を正しいタイミングで出来た場合、瞠目すべき状態になる。

正しいタイミングというのは何事にも時期というものがある。

インド占星術的に言えばダーシャなどであるが、果を受け取るにはその時期というものが存在する。

諸々のタイミングが整った時にガツンとくるわけである。

そう言ったヨガにしろ仏教にしろ一定のメソッドである程度自己の殻が破られ、集中力(サマディー・サマタ力)が高まった状態になると、ダグラスハーディングの実験の真の意味が開示される。

開示とショック

言ったら、本当に頭が無い状態になるのだ。

これはダグラスハーディングの実験をして、

「なんだか楽しかったね」

で済むような状態では無い。

ショックで人生観が変わってしまうような状態になる。

ある意味「それ」がわかるというか実感するわけだから、もう戻れない。

ただ、これをもって悟り・覚醒というのも少し違う。

ようやく扉が少し開き始めたぐらいの感じ。

しかしである。

ここで気づくことがある。

「これ」

別に「それ」でもいいが、とにかく・・・

「・・」

は全く違った世界や自分を顕にしてくれたが、では果たして今まで無かったのかというと、今までも在った。

どこにでも在った

誰にでも在った

ただ、それに気づいていなかっただけで、在った。

だから、クリシュナムルティやダグラスハーディングで触れていたのも「これ」だった。

ただ、深さというか強さが浅すぎて弱すぎて本質が認識出来ないかった。

ということに気づく。