夕方犬の餌を準備しに外に出たときに至福感に包まれた。
全身が静けさと繊細な泡のような幸福感を伴ったエネルギーに浸され感じである。
瞑想してある一定の状態になると、このように至福感やた幸福感が溢れるようにやってくることがある。
その時に…
「あーこれは人間として自然な状態なんだな」
と言う言葉がひらめいた。
悟りや覚醒と言う言葉になってくると、様々なイメージがついてややこしくなってくるが、本来私達の身体性意識性として・・・
何もないのに幸福
と言う状態は実はデフォルトの状態である。
通常私たちは
何かあったら幸せ
と言う常識というか、社会通念できている。
例えば、…
- 日曜日になったら休みだから幸せ
- 見たい映画を見たから幸せ
- おいしいご飯を食べたから幸せ
- 給料日だから幸せ
- 株価が上がったから幸せ
- 〇〇円貯金できたから幸せ
など何らかの条件が満たされたら幸せだと思って生きている。
もちろんこれはこれで幸せである。
しかし必ずしも自分の希望通りに事が展開するわけではない。
- 休みでゆっくりすることなく、普段は仕事しなければいけないし
- 見たい映画を見に行ったのだけれども、予想以上につまらなかったり
- 目当てのランチを食べに行ったら行列で入れなかったり
- 上がったと思ったら今日は株価は下がったり
- 最初は〇〇円で満足していた貯金も物足りなくなったり
などなど、必ずしも自分の希望した通りにはいかないことが多々ある。
だから、通常私たちは自分の希望を叶えるために我慢したり努力したりしている。
もちろんこれはこれでいいわけである。
しかしながら、幸せと言うベクトルは実はこういった行為を行うベクトルとは逆に…
存在しているだけで幸せ
と言う状態も実は存在する。
もっと言ってしまえば、実は自分が希望した通りに事が運んで感じる幸福感はこの存在する幸福感がちょろちょろと漏れ出た現象とも言える。
この存在しているだけで幸せの状態の時は、何か特殊ないい事はなくても、時によっては自分の意図にそわない不幸と言えるような現象が起きている時でも感じる時がある。
私がこういったブログを書いたりメルマガを出したり講座を作ったりしているのは、こういったデフォルトの幸せを多くの人に体感してほしいと言う願いがあるからだ。
先日も講座に参加している方から、現状報告というか感想いただいた。
この方の場合は先月募集したヴィギャン講座の他に、itという神(宇宙意識とも神聖な意識ともいう)をテーマにしたプログラムにも参加されているので、ちょくちょく報告してくれるのだがとりあえず観てほしい。
このように、ある程度コツいうか仕組みがわかってトレーニングが進んでくると比較的簡単に幸福感は感じられるようになってくる。
なぜなら、この状態は努力して努力を重ねて積み上げていくと言うよりも、今まで自分が持っていた余分なもの、例えばそれが…
- 思い込みだったり
- 思考の癖だったり
- 体の癖だったり
こういったことに気づいて手放していたときに自然に現れる状態だからだ。
先にお話ししたこの世界で自分が社会的にしたいことをするにせよ、ストレスいっぱいでガチガチな感じで取り組むか。
もしくは、常にではないが頻繁にやってくる理由のない幸せに満たされて生きていくのか。
なにはともあれ、世界は至福で満たされている。
では、なぜその至福が感じられなくなっているのか?
このテーマは深いので、また別の機会に。