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「眼は眼を見る事が出来ない」理由と瞑想のサマタについて

前回まではあなたは既に悟りの意識状態と一体化していると言う話だった。

あなたは既にそれである アドヴァイタが言う意味とは 

 

今日はその続きから。

 

あなたは既に「それ」である。

では何が足りないのだろうか?

それは強さとショックだ。

 

なぜなら、悟りとあなた

悟りという言葉がしっくり来なければ

光とあなた

宇宙とあなた

言葉は何でもいいが、なぜ既にその状態なのに自覚出来ないのか?

それは、あまりに近すぎるからだ。

 

 

これも良くいう言葉ではあるが

 

「眼は眼を観ることは出来ない」

 

という言葉がある。

眼は全てのものを見る。

 

今読んでいるこの文字

 

スマホやPC

 

机や窓や壁や天井

 

車や電車

 

外の景色

 

全てのものは眼によって見る事ができる。

しかし、眼は自分自身である眼を見る事が出来ない

 

これが認識のアイロニー

 

全ては見る(知る)事が出来るが

 

その見る(知る)主体である眼自体は見る事が出来ない。

 

 

また、魚と水でも例えられる。

 

魚は生まれた時からずっと水の中で過ごしている。

だから、水を特殊なものとは思っていないはず。

まあ、魚に効いたわけではないので推測ではあるが。

 

しかし、魚にとって水は命と同じくらい重要な要素である。

水によって生かされ、水が存在するが故に魚として在る。

これほど重要な水なのに、あまりにも近すぎると存在すらわからなくなる。

 

私たちが悟りの状態と一体化しているにもかかわらず

それを観れない、知れないのはこれらの眼の構造と魚と水の関係に近い。

では、一体どうしたらいいのだろうか?

 

先に「強さとショックが足りない」という話だった。

強さとショックが必要な理由として

 

あまりにも悟りはあなたと近すぎて

 

自然すぎて意識出来ない

 

だから、ショックが必要だ

 

揺らぎが必要だ

 

だから、瞑想などという風変わりなメソッドが必要となってくる

 

普通に考えれば

なぜ座って目を閉じていなければいけない?

不自然ではないか?

 

あなたが親だったら、子供が座って目を閉じていたら…

 

「目を閉じるんだったら横になって寝なさい」

「出なければ、起きて遊ぶなり勉強でもしなさい」

 

と心配しながら言うだろう。

それくらい座禅して瞑想すると言う行為は一般社会的には不自然である。

 

 

しかし、もしこの不自然な瞑想というテクニックを正確に出来たのなら

あなたに不自然な集中力をもたらす。

異常な集中力と言ってもいい。

 

その異常な集中力によって

あなたは悟りの状態を自覚出来る「強さ」を獲得する事が出来る。

 

これがヴィパッサナー瞑想でいう「サマタ力」と言われるものだ。

ただし、このサマタ力は一般的な人間からしたら異常な集中力ではあるが

ここにも実はトリックが存在する。

 

 

この瞑想で必要なサマタ(集中力)は

ビジネスやスポーツで使う集中力とはベクトルが違う。

 

だから、優秀なビジネスマンや学者が必ずしも瞑想者として適しているわけでは無い。

むしろ、ある要素によって才能が邪魔になる場合が多い。

 

一方で、この社会でドロップアウト気味の人間でも瞑想者として優れている場合がある。

では、この瞑想に必要なサマタ力とはどのような性質なのだろうか?

 

実はこのサマタ力(集中力)という言葉自体に罠がある。

 

ある程度のサマタ力は瞑想という訓練によって培われた「力」ではる。

 

しかし、本当のサマタというのは

 

その力を手放した時に自動的に起こるものだからだ

 

だから、ここでは掴み取る「力」の放棄が必要になる

 

受容とも言う

最弱の力とも言える

 

力を最大限に付けた後、その力を放棄する事が必要になってくる

 

ただし、この放棄にはあるものが必要である

 

そのあるものとは…